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アレスの丘から民会場を望む

越智道雄

 事情でステレ4が遅れてあいすみません。

 アテナイ下層市民が安価な皮革甲冑でファランクスを組んだり、トライレースの漕ぎ手として参戦、それ自体が民主主義への参画に繋がった次第を、アメリカ独立戦争に反映させるのが私の役目でした。

 「走る重装歩兵」たちは、槍が武器である以上、白兵戦は避けられませんね。しかし、小銃が主要兵器だった独立戦争では、本来なら白兵戦は回避可能なはずでした。ところが、当時のマスケット銃は軽量化すべく銃身を短くしていたので、命中率極めて悪く、300発で敵兵1人というありさまでした。当時の戦闘方法は、鼓手が戦鼓を打ち鳴らす中、銃手たちは横列展開で敵に全身をさらして立て膝撃ちしては前進を繰返し、その間、敵味方がバタバタ倒れます。と言っても、100ヤード以内で1000丁のマスケット銃で各自が3発撃ってやっと3名倒せるというていたらく。つまり、3000発で戦果は3名。だからこその無謀な横列展開だったわけです。生き残った兵士らは、至近距離まで迫るや、たがいに銃剣突撃による白兵戦で相手を仕留めたのです。

 大陸会議軍(アメリカ軍)は、一応は正規軍でしたが、次男坊以下の貧困層で、給与か土地の下賜を餌にかき集められました。将校への絶対服従、戦闘訓練は受けていましたが、数が英遠征軍より少ない始末で(2万に達したことなし)、装備は貧弱、上記の銃剣突撃を敢行しようにも肝心の銃剣が不足していました。ジョージ・ワシントンも、奥地へ英軍を引きずり込み、兵站線が延びきったところを叩く戦法しかとれませんでした。物資不足の最たるものは、1781年晩夏、フランス・カリブ艦隊の支援だけを頼りに、夜陰、密かにニューヨーク戦線の陣を払って急遽ヨークタウン(ヴァージニア南東部)へ南下したワシントンの軍勢は、軍靴すらなく、ぼろ布を足に巻きつけて行軍、地上に点々と足の血の跡が残っていたことでしょうね。ただし、北部徴募の軍は、奴隷身分からの解放を餌に釣られて参加した黒人たちが5分の1を占めたと言います(以後、正規の米軍が人種統合を遂げるには、実に朝鮮戦争まで待たなければなりませんでした)。

 他方、民主主義との関連では、ミリシャ(民兵隊)のほうが肝心で、彼らは自前のロングライフルで林間から英軍を狙撃、すぐ引き下がって後列が前に出て撃ち、次と交代という、信長が長篠の戦いでとった戦法をとりました。銃身が長いので、命中率はマスケット銃よりうんと高く、自身は木陰に身を潜めて銃撃するので、敵影を見定められない英側は怯えました。この樹間からの銃撃という戦法、また夜間に英兵に忍び寄り、喉仏を掻き切る手法は、インディアン相手の戦闘で身につけたものでした。後者の戦法にも、英側は怯えました。

 これに対抗すべく、英側はドイツのイェーガー(猟師)部隊を雇い入れました(ヘッセンとも言いますね)。これは猟師からなる部隊で、猟師相手には猟師でというわけです。しかし、ジョージ・ワシントンは、ミリシャの戦法を嫌い、ヨーロッパ風の戦法に固執しました。それでも、彼は独立戦争最初の本格的戦闘だったバンカー・ヒルの戦い(1775初夏)で勝利したミリシャを讃えましたが、ミリシャが持ちこたえたのは塹壕戦だったからです。緒戦で活躍したミリシャは、ペンシルヴェニアとケッタッキーの部隊でした。ミリシャは自身のロングライフルの命中率ゆえに、身を敵前にさらす戦闘は真っ平御免で、ニューヨーク戦線ではスタコラ退却、この光景にワシントンのミリシャ不信は決定的となりました。また、ワシントンがトレントン(ニュージャージー州都)で捕虜にした1000名のヘッセン傭兵の一人が、「自分らがこの都市を占領したときは王党派だと言った市民が、米軍が来るや、こちらを銃撃し始め、ある女が窓から放った一弾でこちらの大尉が戦死した。アメリカ人ってのは分からない」とこぼしたそうです。これもまた、白兵戦忌避と関連している戦闘達者・u桙ネがら人命は無駄にしない傾向ではないでしょうか。

 だから、南北戦争と第一次大戦は別として以後の近代戦では、合衆国は空爆に力を入れ、地上戦を可能なかぎり回避することが軍の生理となります。最初に核爆弾を開発したのも、味方の損耗を防ぐため、敵の非戦闘員まで巻き添えにして憚らないことが、隠微な形でアメリカの民主主義を下支えしてきたと見ることもできないでしょうか? 広島に投下の3日後、長崎にまで投下したことこそ許せない話です。それでも、今日、命中率99%以上に磨き上げた核ミサイルは、太平洋で原潜に搭載されて、中国河南省のミサイル・サイロに常時照準されていますが、敵兵の人命の損傷は最小限に止める工夫がなされているそうです。ちなみに中国やロシアの核ミサイルは、冷戦時代のまま、命中率20%です。これだと無差別破壊しかできず、敵方の人命尊重などできっこありません。

 さて、ミリシャは中農層が多く、自宅の近辺でしか戦えないし、農繁期はそれさえ無理というのが弱点でしたが、常に兵力不足の大陸会議軍の指揮官たちは、戦闘現場周辺の農民をミリシャとして招集、彼らを大いに頼りにしたのです。戦争初期では、前述のバンカーヒルの戦闘にはるばるケンタッキーからボストンへ遠征してきましたが、原則として近くの戦闘に参加しました。しかし、大陸会議軍の苦戦が続くと、ミリシャも遠征を強いられ、独立戦争の帰趨を制したサラトガの戦闘(1777)には、ニューイングランドのミリシャがニューヨークまで南下、勝利に貢献しました。大陸会議軍に比べて、ミリシャが戦闘を通して進化していった具体例の1つです。ただし、地元を離れたミリシャは、糧食その他を駐屯地の農民から強制徴発せざるをえなくなり、「人民の海を泳ぐゲリラ」ではいられなくなり、戦意も低下します。

 ミリシャは互選で将校を選びましたが、戦闘が終われば隣人同士、従って軍隊の職階は戦闘中以外はなきに等しかったのです。大陸会議軍の将官は、この軍律なき烏合の衆について非難の記録ばかり残していますが、ミリシャは戦闘日誌も残していません。従ってミリシャの研究自体、古代ギリシャ史ほどではなくとも、給与明細書など資料の発掘が遅れ、まだこれからの研究分野と言えます。

 前述のように、大陸会議軍には無産層が土地の下賜を当てに志願し、土地を持つ者がミリシャでした。この構図に、独立戦争前から地域社会とコロニーでは、イギリスに対する反発を梃子に「アメリカ」としての「準国家」像に基づいての個人の権利と責任を機軸とする民主主義がすでに定着していた様子が窺えます。また、遮蔽物抜きの戦闘を回避することも(逃げ出すコツに長けていた)、アテナイの下層市民からなる「走る重装歩兵」の壮絶な突撃とは矛盾しますが、民主主義の端的な表れと言えませんか? 将校の互選も、ある程度、シヴィリアン・コントロールの概念と呼応していますし。指導層も憲法制定会議(1787)でミリシャの指揮権を連邦議会に委ねる条項を設け、シヴィリアン・コントロールの礎石を固めました(第1条第8項)。

 英側は、募兵がうまく行かず、「強制徴募(プレス・ギャング)」までやります。王のために命を賭けるなど無意味だと、オリヴァ・クロムウェルがすでにピューリタン革命(1642〜49)で断定、「ミリシャは民選議会に従う」と言い切っていました。王政下での強制徴募こそ、逆にイギリス国内に勃興してくる民主主義を予告ていたことになりますか。

 さて、1776年、英側が敗れたボストンから軍艦で兵員をニューヨークへ移送、ここを拠点にした一因は、オランダ系を味方につける魂胆からでした。もともとニューヨークは「ニューアムステルダム」でしたからね。ところが、近年発掘されたバーゲン郡(ニュージャージー州)のオランダ系の資料では、3分の1から2分の1が「王党派」でしたが、アメリカの宗教大覚醒期を経て新たに生まれた「オランダ改革派」は、ほぼ挙って独立側に味方したらしいのです。英側は、この分裂につけ込みますが、オランダ系は近親憎悪でもののみごとに分裂、相互に凄惨な襲撃を行い、その跡を見た英軍があきれたほどでした。

 王党派へのリンチは、コールタールを全身に塗りつけ、鶏の羽毛をふりかけて、胃腸が破裂するまでむりやり水を大量に飲ませるやり方で、英系の間でも見られました。これは「ター&フェザー(コールタール塗り、羽毛覆い)」と「ウォーターボーディング(水責め)」という拷問方法で、後者は近年もグアンタナモでアルカーイダ容疑者に対して使われ、ショックを与えましたね。ともかく、王党派10万がカナダへ逃れ、今日のカナダのアングロフォン(カナダでの英系の呼称)の中核になります。独立側も、ニューヨーク徴募の連隊をカナダ攻略に派遣しています。

 ところで、オランダ改革派は、フランクリン・ローズヴェルトの宗派だし、横浜のフェリス女学院設立者、メアリー・E・キダーの宗派でもありますね。しかも、1777年、英軍が越冬糧食をこのバーゲン郡から奪う愚を冒したため、オランダ系農民はほぼ挙って独立側についてしまいます。

 当てが外れた英側は、対英貿易が盛んな南部でなら、「王党派」が多いかと当てにして、ニューヨークから軍を割きますが、皮肉にも南部のミリシャが最も獰猛に抵抗、例えばカウペンズの戦闘(サウスキャロライナ/1781)では、ミリシャは「逃げ足の速さ」の悪評を逆に戦術に転用、相手を欺いて鮮烈な勝利を収めます。興味深いことに、ウィリアム・ラミーが1845年に描いたこの戦闘の絵では、騎乗した黒人奴隷の若者が馬上の英軍将校を撃ってミリシャの大佐を救う光景が描かれています(若者は私設従卒として参戦したのか?)。ともかくこの結果、英軍はついにはヨークタウンに籠城させられ、フランス・カリブ艦隊の来援もあって、トーマス・ネルスン知事麾下のミリシャ3000名は正規軍の右翼を担って戦い、ついに英軍は降伏、独立戦争は終わり、民主主義に基づく独立革命(アメリカン・レヴォリューション)は戦火と戦死の流血の只中で成就します。これがアテナイとの照応ですが、同時にアテナイがデロス同盟でアドリア海、地中海の覇権へと踏み出したように、合衆国もまた20世紀半ばの覇権国家へと踏み出したわけです。

 南部のミリシャが強かったのは、常時、奴隷の造反に対する自警団組織が基礎になっていたのかもしれません。後に南部が南北戦争に敗れると、KKKとか「白椿騎士団」その他多くのゲリラとなって蘇るのですが。今日、ミリシャは各州の正規兵となり、大統領によって「連邦軍化」され、今回のイラク戦争のように海外へも派兵させられます。(09/11/7)

向山宏

 白兵戦については、アテナイの場合は王政期の一騎打ち戦法では一般的ですが、密集隊戦法では楯の構造から白兵戦には不利なようで、敗走時の乱戦でもあまり見られないようです。この際も少人数ながら槍を揃え、楯の壁を維持したままで後退したようです。

 アメリカ独立戦争では土地所有の中農層がミリシアとして農閑期に有効な活躍をし、小農や無産者が大陸会議の正規軍として、給金や土地の下賜を期待して常時戦ったというのは、とても示唆的で面白いですね。

 アテナイでも中農以上の農民が武具を自弁して重装歩兵の密集隊に参加し、3日分の食料を携え農繁期を避けて出動し、初期の民主政の担い手となります(重装歩兵民主政)。それ以下の小農や無産者は3日分の食料こそ持参しますが、武具自弁ができず、日当給付を受けて裸一貫で軍船に乗り込みます。あわよくば占領地の住民を追い出して植民しようとしますが、その例はすでに大戦前の紀元前452年ごろ、エウボイア島反乱時のヘスティアに見られます。こうした軍船乗り組みと海上覇権の華やかな成果によって、かれら「海の大衆」とよばれる人びとは政治的にも進出し、とくにペロポネソス戦争開始で始まるアテナイの籠城では、ほとんどのアテナイ市民が狭い城壁内での生活を強いられたため、小農と無産者からなる「海の大衆」が民会場での圧倒的多数をしめるようになり、民主政をさらに進展させます(急進民主政)。

 こうして民主政は重装歩兵の民主政から出発して「海の大衆」の急進民主政へと変質する段階で(紀元前470年代に開始、450年代に完成、両者の時差30−50年)、重装歩兵の役割は微妙に後退します。政治的にかれらの立場は将軍のテラメネスやソクラテス告発のアニュトスらの一派に代表され、「父祖の国制」「5000人政体」(ステラ3参照。これは重装歩兵数を想起させる)に心を寄せ、これは穏健寡頭派であって、もはや民主政の範疇ではなくなっています。かれらは民主派と寡頭派の中間的党派として両者に対抗抵抗しつつ、独自の行動をします。かれらが自分たちを正当な穏健民主派と自覚していたからこそ自信にあふれた柔軟な行動ができ、民衆に支持されつつ民衆に紛れ込むことができたと考えられます。民主政を支持しつつもその過激さを批判したツキュディデスやクセノフォン、アリストテレスなどの立場もこれに近いでしょう。

 逆に言えば、アテナイが重装歩兵民主政に留まっておれば単なる1ポリスにすぎず、ペルシア戦争勝利の立役者としてエーゲ海の海上覇権、デロス同盟の盟主たる地位も夢のまた夢だったことでしょう。この転換を推進した人物は、庶子の出自からのし上がって強力な政治指導者になったテミストクレスですが、かれはソロン以来の船団を組んでの海上活動への進出派の流れに乗り、ラウレイオン銀鉱山の開発で生じた国庫で建艦政策(トライレース、すなわち三段櫂船建造)を推進します。食糧自給のできないアテナイの農業事情、周辺の海上活動の盛んな諸国との軋轢もありますが、結果としては潜在的な勢力としての「海の大衆」の能力を引き出しました。この意味では急進民主政はアテナイにとって宿命的な進路であり、急進民主政こそがアテナイにとって真の民主政であったといえるかもしれません。

 ともあれ、アテナイ民主政は重装歩兵の民主政と「海の大衆」の民主政という二重底の構造を持っていて、そういう見方をしないと民主派と寡頭派との対立図式だけでは理解しにくい面があります。さらに、この構造の背後にはアテナイの領土たるアッティカに伝統的に存在した地理的産業的文化的な地域対立の背景もあります。 (09/11/10)
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