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映画10_1.麻薬スーパーハイウエイ・ドラマの背景『トラフィック』

〔ウェットバックたちと「嘲笑われる国境」〕

 メキシコ国境は3千200キロある。大きな国境検問所は、『トラフィック』の舞台、サンディエゴ(米)=ティワナ(墨)の他に、エルパソ=シウダッド・フアレス、ツーソン南のノガレス=ノガレスなどがある。

 私は最初の2ヵ所しか知らないが、ティワナもフアレスも、川を跨ぐ橋に老婆や子供の乞食が目立つ。アメリカの物乞いに比べて、メキシコの物乞いは中世的な迫力がある。街頭には歯医者と薬局がやたら多い。自国の医療費や薬代が高いのを嫌って、アメリカ人が押し寄せるからだ。物価の安さは驚異的で、昨年もティワナでは同行した妻に買った、孔雀石を銀の枠にはめ込んだネックレスとブレスレットの対を500ドルから150ドルに値切れた。売り手も値切られるのを掛け合い漫才として楽しむ様子がある。ハリウッドの俳優たちも休日はティワナに来る者が多く、古くは映画『荒野の決闘』で清楚な美女クレメンタインを演じた女優キャシー・ダウンズもここで宝石を買うのが趣味だった。  1980年代は、国境からモヤードスまたはウェットバックと呼ばれる不法移民が年間平均100万人規模で押しかけてきたと言われる。メキシコでの週給分がアメリカでは1日で稼げる経済格差が、根本原因である。

 私も1989年夏の早朝、エルパソでリオグランデ川沿岸に車を停めて不法移民の「通勤」風景を観察した。ほぼ全員が大きなビニール袋を抱えて、時には父子連れで、フェンスに切り開けた大穴から入ってくる。ビニール袋は川をゴムボートで渡るときに備えてだ。ウェットバック(濡れた背中)の呼称も渡河に由来する。渡し守はコヨーテと呼ばれるが、トラックその他の下に板を渡してウェットバックを「密輸」する連中もコヨーテだ。ウェットバックらは、さらに内側のフェンスをよじ登ってエルパソ市内へ消えていく。

 「通勤」と書いたが、逮捕されても略式裁判で即刻バスで送還され、その日の午後にまた同じ人物が捕まることも多い気軽さだからこそ(前述の年間100万人はこの延べ人数だから、実際は半分以下だろう)、「通勤」が可能なのだ。送還バスの中では、「まだ日が高いから午後また越境しようぜ」というスペイン語の台詞が飛び交っていると言う。

 エルパソ検問所近くへ戻ると、双眼鏡で国境を睨んでいるパトロール警官のすぐ脇で、ビニール袋のウェットバックらが平気で雑談している。川向こうのコンクリート堤防では数名のウェットバック予備軍が手を振ってパトロールをからかい、例外なく黒眼鏡をかけた濃紺制服の白人パトロールたちは無言で彼らを睨み返している。いずれも夜の追っかけっこの前哨戦なのだ。このとき私は、「ああ、この国境は嘲笑われているな」と思った。さっき見たフェンスの大穴が、嘲り笑う大きな口になって脳裏に蘇ってきたものだ。

 「嘲笑われる国境」を出現させた原動力は何だったのか?

〔「麻薬HWY」から「NAFTA・HWY」へ〕

 エルパソの対岸はシウダッド・フアレス(人口80万)だが、この映画ではこの都市の麻薬カルテルとティワナ(人口150万)のカルテルとの抗争が描かれている。ティワナ・カルテルのモデルはAFO(アレアーノ=フェリックス組)、フアレスの場合はメキシコ最強と言われたアマド・カリージョ・フエンテス組と思われる。カリージョは別名「空の帝王」、コロンビア=メキシコ間を自家用の大型ジェット機編隊を往復させて麻薬を運ぶ壮大なスケールを誇っていた。しかし官憲の追及をかわすべく顔の整形中、手術ミスで 1997年7月に死亡した。

 麻薬はメキシコ経済の要である。合法な外貨獲得のトップ、石油輸出と観光を抜いて、年間300億ドルを稼ぐ。「空の帝王」だけで100億ドル稼いでいた。  後述のように、アメリカや日本の企業は車や電化製品の部品を米側で生産、組立だけ労賃の安いメキシコに回し、製品を米市場で売る。この多少とも相互依存的生産形態に比べ、麻薬は一切の工程をメキシコ側で仕上げ、米市場に売れる「自前産業」なのだ。

 クリントン政権はメキシコ政府との間でNAFTA(北米自由貿易協定)締結を急いだが、すでに「麻薬スーパーハイウエイ」と化したメキシコ国境を「麻薬自由貿易スーパーハイウエイ」にエスカレートさせかねないのである。麻薬摘発の成果が上がらないメキシコ政府に対して懲罰的な援助停止をなかなか発動できなかったのは、クリントンのジレンマの表れだった。

 メキシコでは軍隊が自前のコカやマリワナ畑を擁し、カンペシーノス(水飲み百姓)を脅してコカを栽培させている。警官は月給335ドルなのに比べて、麻薬ボスのボディガードになれば月給4千ドル、しかもカルテルの「プラタ・オ・プロモ(金か鉄砲玉か)」戦術、つまり賄賂を拒否すると殺すと迫られて警官その他の役人はまともな勤務が不可能なのは、映画にある通りだ。軍の麻薬関与を暴いた廉直な将軍の1人は、逆に刑務所に放り込まれている始末である。

 上流階級の資本が麻薬で運用され、サリナス前政権自体がこの構造に関与していた。トーマス・ミリアンの名演によって強烈な印象を残したサラザール将軍の実在のモデルは、97年2月に逮捕された、「国家麻薬戦争本部(INCD)」局長ヘスース・グティエレス・レボージョ将軍である。もっとも、映画では同僚を殺されたティワナ市警刑事ハビエールがカルテルへの復讐のために米側の「麻薬取締局(DEA)」に密告した結果、サラザール将軍が逮捕されるのだが、レボージョ将軍逮捕は彼が給料では到底買えない億ションを購入、上司の国防長官が尋問、将軍が心臓発作を起こした、いわば偶然のきっかけにすぎなかった(レボージョも堂々たる恰幅だが、蚤の心臓だったわけだ)。ともかく、映画のように米墨の麻薬摘発協力の成果ではなかったのである。しかも将軍は麻薬取締りの最高責任者で、その彼が前記のカリージョとグルで、イエス(ヘスース)という恐れ多い名を持っているのだから、メキシコはもはや不条理の世界である。

〔米側の「産業の空洞化」を埋めるマキラドーラス〕

 究極の不条理は、この映画にあるように、合衆国政府は麻薬撲滅に躍起となってきたが、撲滅しようものなら(できるわけがないのだが)、すでに財政破綻したメキシコ政府は革命に見舞われ、時代遅れの極左政権が誕生するから撲滅自体が自滅の道だと言われていることだろう。究極の不条理のコミック版が、ティワナ南のカリナカン(人口60万)にある。ここはコロンビアの有名なカルテルに因んで「メキシコ版カーリ」と呼ばれているが、「麻薬大聖人(エル・ナルコサントン)」を祭る御社(おやしろ)(ルビ)があるのだ。1909年に処刑された小悪党がレボージョ将軍と同じヘスース(イエス)という恐れ多い名だったせいである。

 今日、世界で動く麻薬マネーは4千億ドルと言われるが、その半分以上が中南米中心に還流しているのだ。

 還流と言えば、デルモンテなどアメリカのアグリビジネス、巷の縫製工場などの中小企業はウェットバックら、メキシコその他からの労働力抜きでは成り立たない。同時に、アメリカの大企業の工場群は、人件費の高い自国内では立ち行かないから、労働市場が安価な中南米に工場を建てる。

 ユーロランドのような合同経済圏は、西欧のハイテクノロジー圏と中欧の安価な労働市場の双方を取り込んでいるからこそ成立する。むろん双方が消費市場にもなる。ここは「ヨーロッパ合衆国」と呼ばれるが、経済共同体で国家主権は各国が保有している。安価な労働力の移動の自由も認めている。先輩の「アメリカ合衆国」は経済・政治両方で一国を形成しているので、安価な労働市場を自ら国外へ駆逐してしまった。だからこそ、ユーロランド同様、合法的に安価な労働市場が確保できるNAFTAが不可欠になったのだ。

 1980年代以降アジアに世界資本が流れ込み、アジアの時代と喧伝されたのは、日本、韓国、台湾、シンガポールのハイテクノロジー諸国と、それ以外の諸国の安価な労働市場という2つの条件が揃っていたからだ。

 従って1960年代以降、メキシコ国境には、マキラドーラスと呼ばれる部品組立工場団地が出現、日米の企業が一斉に米側で製造した部品を送り込み始めた。労働条件の劣悪さ、団地周辺の環境破壊が深刻だが、これらが許されるからこそ安価な労働力が保たれるのだ。マキラドーラスの外貨益は、メキシコでは石油、観光に次ぐ3位、麻薬よりは4つもランクが落ちるのはこれまた不条理だが。

 一方、「産業の空洞化」が起きたアメリカ本国では、ブルーカラーが失業し、労組は衰退した。特にアフリカ系やヒスパニックのブルーカラーの被害は深刻で、失業した親に代わって子供らは少年ギャングとして麻薬販売網を構築、縄張り争いを繰り返す。「若者ギャング」の「走行射撃(ドライヴバイ・シューティング)」はこの空洞化が背景だ。映画に出てくるシンシナティの麻薬スラムはその典型だが、アフリカ系同士で殺し合う「若者ギャング」の悲惨さは描かれていない。

 ただ米側の麻薬取締最高責任者ウェイクフィールドの娘キャロラインを麻薬に誘い込む、やはり上流階級の子弟セスが、ウェイクフィールドに、「白人がこのスラムに住む身になれば、麻薬販売で生き延びるしかない」と弁護するだけである。

〔「不法移民スーパーハイウエイ」への反発〕

 映画では中流の上や上流層のアメリカ白人が特別に麻薬常用に悩まされている印象を与えるが、1999年度で1480万人のアメリカ人が麻薬使用したうち、本格的常習者は330万人、民族集団別だと最高が各種混血(11.2%)、以下、インディアン(10.6%)、アフリカ系(7.7%)、ヒスパニック(6.8%)、白人(6.6%)の順で、白人被害者は最小のアジア系(3.2%)から見て下から2番目になっている。また映画だと学歴が高い白人層の麻薬禍が強調されているが、学卒者は最低の4.8%だ。地域別では、西部(7.9%)、北東部(7.4%)、中西部(6.7%)、南部(5.6%)の順である。しかしメキシコのカルテルは遠くニューヨークまで市場を広げ、同地では逆に本家のお株を奪ってコロンビアのカルテルに製品を提供するほどの繁盛ぶりだ。

 「麻薬スーパーハイウエイ」は「不法移民スーパーハイウエイ」でもあるので、カリフォルニアではこの20年間に人口が1100万人増えたが、その多くがヒスパニックとアジア系で、州の人口比率は白人59%に対して、ヒスパニック26%、アジア系10%と有色人種が増え、ロサンジェルスだけだと白人は有色人種より少数派に転落した。21世紀半ばまでには、アメリカ人4人に1人がヒスパニックになると言われている。

 かつて全米最高だった州の教育水準は、38位に転落した。アメリカの公教育は「独立学校区」が教育税の徴税権を握っており、不法入国者の子弟でも学校に受け入れ、移民帰化局に報告する義務を負わない。従って不法移民の子弟に教育費を割いた結果、教育予算が底をついたのである。

 これがいわゆるグローバライゼーションの裏の実態だが、この高度資本主義の構造的矛盾を理解しない南カリフォルニアの中流白人らは、必死になってウェットバックだけでなく合法移民まで排除し始めた。政治家は移民反対を唱えれば当選確実という風潮が出てきた。「ゲートキーパー作戦」と銘打った不法移民・麻薬流入阻止のキャンペーンが実施され、96年には、前述の「嘲笑われたフェンス」も、カリフォルニア=メキシコの境界線22.4キロにわたって張りめぐらされているが、その一部を三重にする措置がとられた。むろん、麻薬取締りはパトロール要員の増員、生き物の放つ熱に感応して標的を映像化できるナイトスコープの装備、麻薬運搬路へのセンサーの埋め込みなど、メキシコ当局への協力の強要(もっとも米側官憲はメキシコ官憲を全く信用していないのだが)などで、一層強化されたが、官憲による人権侵害や暴行、時には殺人も相次ぎ、運搬側が官憲に反撃して殺害する新しいケースが出てきた。また白人至上主義者らが、サンディエゴの路上でヒスパニックを襲い始めた。

〔双子都市の「双子工場」間に介在する「国境」の魔術〕

 しかし本当に嘲笑うべきなのは、南カリフォルニア、特にティワナと隣接するサンディエゴ(人口200万)の資本こそ、最もティワナに流入、国境を隔てた2都市は完全に経済面で癒着していることだ。95年時点でメキシコ全土で2300あったマキラドーラスの500がティワナに集中した。86年時点でその75%がサンディエゴ資本と癒着していた。米側の部品製造工場とマキラドーラスを合わせて「双子工場(トゥイン・プラント)」と呼ぶのは、まさにこの癒着を象徴する呼称である。同時に、これこそNAFTAによる「ブロック別グローバライゼーション」の縮図でもあるのだ。

 『トラフィック』では、サンディエゴの、太平洋が見晴らせる高級住宅地ラホーヤの豪勢な邸宅でフィランスロピーに励んで上流白人の仲間入りを果たしたカルロス・アヤラとアングロ(白人)妻のヘレーナの姿が描かれる。この夫婦の姿こそ、麻薬マネーのロンダリングと対をなす、麻薬王の「社会的ロンダリング」だと言える。

 ラホーヤには、かつての駐日大使エドウィン・ライシャワー邸もあって、元大使の葬儀は、太平洋が見晴らせる芝生の庭先に会葬者一同が居並び、ヘリコプターから遺灰がまかれる光景を見守る形で行われた。日米関係改善に尽くした元大使の遺灰が両国を挟む太平洋上にまかれる──それ自体は美しくも哀切な話だが、ラホーヤこそ白人上流層が「国境の南」での事業で稼ぎながら、その「南」から流入してくるメキシコ人たちは峻拒し続けてきた高台の砦だったのだ。その砦にまんまと入り込んだアヤラ夫妻こそ、この2都市の腐れ縁を嘲笑う存在なのである。

 2都市の腐れ縁には、ライシャワーの縁もあってか、日立、ソニー、松下などの日本企業も関与してきた。94年時点で、「双子工場」に関係するアメリカ人、5千から6千人が日々国境を越えて通勤していた。2都市は事実上、1都市に機能化され、ただハイテク精密部品製造部門とロウテク組立部門の間に「国境」が介在するだけなのだ。そしてこの「国境」という前近代的要因こそ超近代的経済活動とされるグローバライゼーションのマジックの種を提供する──この深刻な皮肉が、他ならぬその国境で日々演じられているの である。
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