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映画10_12.シュレミール(ユダヤ道化)のカウンターゲーム『ライフ・イズ・ビューティフル』

 ユダヤ人の道化はシュレミールと呼ばれる。間抜け、ぐず、のろまを意味する。ユダヤ文学やユダヤ映画はおびただしいシュレミールを産み出してきたが、ウディ・アレンもシュレミールを演じてきた。『ライフ・イズ・ビューティフル』のロベルト・ベニーニ(非ユダヤ系)が「イタリアのウディ・アレン」と呼ばれている理由の一つは、彼の演じたユダヤ系主人公グィドが最新のシュレミールになりおわせているからだ。

 ヨーロッパでは、道化の一種に贋王というのがあり、本物の王と対置され、世間の嘲りの的にされた。贋王は、あらゆる人間の中で最も恵まれた本物の王に世間の嫉妬が向けられるのを回避する手段に使われた。嫉妬は世間ばかりでなく、神の嫉妬も含まれていた。贋王が王に代わって嘲らけられることで、世間や神の嫉妬を中和しようとしたのだ。

 また王の道化の中には、王の家臣はもとより、王自身すら毒づき、それによって権力者への嫉妬を和らげる役目を持つ者もいた。

 ユダヤ人に対するキリスト教圏の迫害には、彼らを殺したり、追放したりするだけでなく、道化として利用する側面があった。むろん贋王としても利用された。ナチスも強制収容所では、ユダヤ人に裸でレースさせたり、際限もなく踊り歌わせたりした。

 このように、道化、そしてユダヤ人は社会の序列外に置かれ、「本質的なアウトサイダー」としてインサイダーたちの階級的軋轢や矛盾を中和する装置に使われてきた。インサイダー同士の確執がどうにもならない限界まで強まると、インサイダー同士のゲームを一端ちゃらにして、全ての階級のインサイダーたちが道化やユダヤ人を攻撃すればよかったのである。ヒトラーは、六百万の失業者をわずか数年で百万人に縮小し、ドイツ人の心を奪ったが、この奇跡の経済回復はユダヤ人攻撃というなまぬるいやり方ではだめで、ユダヤ人殲滅というすさまじい徹底したやり口を魔術に使った成果だった。殺されたユダヤ人が、ドイツ失業者の数と同数の六百万人だったのも、不気味な暗合である。

 しかし道化やシュレミールのほうも、王や主流社会に対して命がけのゲームを仕掛けてきたのだ。主流社会のゲームをメージャーゲーム(主流ゲーム)とすれば、アウトサイダーが主流社会に仕掛けるゲームはカウンターゲーム(対抗ゲーム)である。

 この映画でも例えば、グィドが上流の令嬢ドーラの心を射止めるにはさまざまなカウンターゲームを駆使するが、その典型は馬で彼女を婚約発表会場から拉致するシーンだろう。ナチスの女性から身体障害者三十万人の粛清による経済効果を吹聴され、それに乗りかけるドーラのファシスト婚約者を、グィドはすでにさまざまな偶然や術策で貶めてきたが、拉致に使った馬がホテルのマネジャーである叔父の白馬で、この馬はファシストから「ユダヤ馬」と落書きされたことがある。つまり、主流社会が貶めた馬を使って、主流社会の上級者に一泡吹かせたわけで、この逆手ぶりがカウンターゲームの特徴である。従って、シュレミールを間抜けと見るのはシュレミールの見せ掛けに騙された主流社会のほうで、カンウターゲームを実行するシュレミール自身は間抜けとは正反対なのだ。

 ナチスによるユダヤ人殲滅が最も酸鼻を極めたのはポーランドで、ポーランド人自身がそれに手を貸したし、ナチスに抵抗するポーランド人すらユダヤ迫害を繰り返す始末だった。しかしこの映画の舞台であるイタリア及び同国ファシストの占領地域ではユダヤ人は比較的人道的に扱われた。クロアチアなどの占領地での強制収容所の建設も、リッペントロップ元帥がムッソリーニに強要して、仕方なく実行された。フランスやユーゴのナチス占領地域から逃れてきたユダヤ人を匿うイタリア人も多かった。とはいえ、この映画にも描かれるように、ドーラの婚約者に祝福を与える黒シャツ隊(ムッソリーニのファシスト部隊)やグィドの叔父の襲撃者のようなイタリア人も多々いたのである。

 グィドがシュレミールの真骨頂を発揮するのは、不幸にしてイタリア・ファシストの支配地域外、ナチスの支配下にある強制収容所に父子で連行されてからである。しかも駆け落ち結婚のドーラも、非ユダヤ人でありながら、愛する夫と息子の後を追って自ら収容所入りを希望、入所するが、内部では男女別に収容され、最後まで会えない。

 一人息子ジョズエを収容所の恐怖から守ることが、グィドのカウンターゲームとなり、それ自体がナチスへの哀切な抵抗になる──これがこの映画の感動の核心である。ユダヤ人の絶望的な反乱は現実にかなり行われたのだが、じかにナチス体制に牙をむくのではなく、幼い者を守る弱いシュレミールのカウンターゲームが、実は最も強い抵抗だったというこの映画の教訓が、悪ずれしてなまじいな映画には感動しなくなった海千山千のアカデミー賞選考委員の胸をすら打ったのである。

 グィドは息子に、苦しくも恐ろしい収容所暮らしは実はゲームで、日々の恐怖は点数制になっていて、これらの恐怖に音をあげず、最高点の千点を取得した暁には、褒美に本物の戦車がもらえて、大手を振って家に帰れると嘘をつき続けるのだ。グィドは、初日のナチス下士官による収容所規定を、ドイツ語も分からないのにイタリア語に訳す通訳を買って出て、息子に、下士官がゲームのルールを説明しているかのように訳してのける。

 連合軍が迫り、ナチス兵士が逃亡前にユダヤ人の殺害を始めたときも、グィドはあくまでゲームの一環として息子を鉄箱に隠し、自らはナチス兵士に捕まって鉄箱の前を射殺されるべく連行されていくときも、鉄箱の穴から覗く息子にゲームであることを強調しようと、わざと道化風に大袈裟な歩き方をしてみせる。これは、この映画で一番もののあわれを誘うシーンだろう。

 グィドが物陰で射殺され、生き残った被収容者も出ていき、人気がなくなった収容所の中庭に息子が出てきたとき、連合軍の戦車が入ってくる。グィドはさまざまの幸運な偶然からドーラの心を得たが、彼が息子に約束した褒美の戦車の登場は、その幸運な偶然のクライマックスである。その幸運の戦車の上からジョズエが母親ドーラを見つけるのは、当然の成り行きであり、母子はそれぞれの思いからゲームに「勝った」と叫ぶのだ。

 この映画の、いかにもカウンターゲームらしい題名は、スターリンが放った暗殺者を座して待つトロッキーが、その恐怖の只中で、「今でも自分は『人生は美しい』と思っている」と書き残した事実から、ベニーニが啓示を受けたことに起因している。
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