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映画10_16.『月はどっちに出ている?』

多元化日本、つきはどっちに出ている?

 昨年後半には筒井康隆断筆宣言、それを追うように崔洋一監督の『月はどっちに出ている』が封切られた。これはこの国における差別・被差別の問題で長らく中心的傾向をなしてきた差別表現の事前自己検閲と差別意図隠蔽の流れに棹さす事件だった。

 『週間現代』一九九三年十二月二十五日号の「100人の映画好きが選んだ’93年度ベスト作品賞」では、『月はどっちに出ている』が洋画・邦画合体のベストテンで二位を獲得した。私自身は一位に推した。目下は同誌の結果しか知らないのだが、この作品に対する評価の高さが国内全般の現象ならば、これまた日本に多元化への総体的蠢動が起こっていることの顕著な表れと受け取れよう。

 筒井事件と『月はどっちに出ている』は、以下に説明する差別克服戦術の二典型と関わりがある。そしてこの二つの出来事は、総体的にはアメリカを中心とする諸外国の日本のビジネス慣習に対する総攻撃と密接に関係している。日本のビジネス慣習こそ、対海外差別だけでなく対国内差別のタービンであり続けてきたからである。外国人雇用差別、外国企業のビジネス契約への参入阻止は、在日外国人や部落民雇用差別、彼らの企業との契約忌避と連動してきた。

 筒井事件に窺える主流派日本人(マジョリティ)(ルビ)側の否定的動機は、諸外国の日本叩きに音をあげたマジョリティの一部が、より弱い国内の非主流派日本人(マイノリティ)(ルビ)に破れ被れの反撃に打って出たことである。一方、肯定的動機は、「差別表現の事前自己検閲によって差別の事実まで隠蔽する従来のやり方では、海外からの多元化圧力によってついに始まったばかりの多元化の実像を見失い、新たな表現領域を開拓し損なう恐れがあるから、ぜひともそれを回避したい」ということである。いずれにしても、筒井とマスコミ側は表現の自由、日本てんかん協会は「社会的公正(ソーシャル・ジャスティス)(ルビ)」を、それぞれ楯にとって争っている。双方とも異質な「真実」を根拠にしているので、この闘いには相互の歩み寄りがないかぎり出口はない。

〔低コスト型の差別糾弾と高コスト型の差別克服〕

 ある国のマイノリティがその国のマジョリティの差別意識を糾弾するには、後者が使用した差別表現を捉えて意識改革を迫るやり方が最も基礎的な戦術になる。主流派、非主流派民族集団のせめぎあいでは日本よりはるかに多くの経験を積むアメリカでも、差別表現追求はいわゆるPC(政治的妥当性)問題として現在も爆発を続けている。アフリカ系の呼称では、「アフリカ系アメリカ人」か「ブラック」はPCだが、「ニガー」や「ニグラ」はノンPCだという風に使う。レズビアンの異常殺人を描いた映画『氷の微笑』では、映画製作側が脚本の書換えに充分な誠意を見せなかったことを理由に、全米のゲイ組織が上映館にピケをはり、「リベラル・ファシズム」の極致と主流派側から非難された。この戦術を行使するには、動員力と組織力がものをいい、資金的には最小限で実行できるため、マイノリティ側が「社会主流化(メインストリーミング)(ルビ)」を充分遂げていない段階、つまり彼らの民族資本ないし集団資本を確立していない段階での中心的戦術になる。だが低コストの戦術なので、マイノリティの主流化が進んだ今日でも、この戦術は多用されている。

 日本の場合、この戦術が圧倒的多数を占める。これの最大の成功例の一つは、首都圏百二十余社に人権室を設置させた部落解放同盟の闘いだった。私はこの話を電通の人権室の人に聞いたのだが、発端は、これらの会社の人事部が部落出身者排除の目的で『日本地名事典』を購入したことを探知した解放同盟が、各社に抗議、単なる謝罪をかちとっただけでなく、各社にあらゆる差別の苦情を受け止め、その処理に当たる人権室を設置させた。ちなみに電通は、こういう風に受け身ではなく、率先して人権室を設置した唯一の会社だという。またアメリカやオーストラリアでは、一九六〇年代から七〇年代にかけて主に元新左翼の闘士らの手で主要な会社にはEEO(平等雇用機会)と呼ばれるセクションが設けられ、社内での雇用・昇格・ビジネス契約などをめぐる差別の苦情処理に当たっている。電通の場合も、人権室設置の推進力になった人物は全共闘時代の活動家だった重役だというから、公民権運動の刺激によって誕生した一九六〇年代のカウンターカルチャーが差別是正の運動律を継続させていることの頼もしい証拠の一つといえる。

 別な戦術は、マイノリティ側が表現手段を獲得、自らの小説を執筆、自らの映画を製作、その芸術的感動にマジョリティ側を巻き込んで彼らの意識改革を引き出すやり方である。筒井問題の場合、日本てんかん協会側に筒井に匹敵する執筆者や映画製作者がいないことが、右の低コスト戦術に訴えざるをえない事態を招いた。筒井側の旗色がいいので、協会側は戦術転換を余儀なくされ、私が目撃した例では新宿駅頭でのパンフレット配付と署名運動という、啓蒙的戦術に切り換えたらしい。私が署名すると、相手の少年が「おとうさん、もらえたよ」と近くにいた大人に声をかけ、両親とおぼしき男女が「よかったね」と返事していたから、家族ぐるみの街頭活動らしかった。

〔アメリカより三十年遅れで登場した日本のマイノリティ映画〕

 『月はどっちに出ている』は、マイノリティが映画製作によってマジョリティ側の意識改革を敢行した典型となった。このやり方は高コストだから、マイノリティ側がある程度「社会主流化」を遂げていないとむつかしい。この映画の製作会社シネカノンは在日韓国・朝鮮人が経営する小さな組織らしいが、製作協力はパイオニアLDC株式会社となっているから、大手資本がついたことになる。映画冒頭の結婚披露宴では、朝鮮銀行の財政状況の悪さが話題になり、「民族資本なんていったって中身はぼろぼろよ」という台詞が聞こえる。この点は気になったので、確かめると、日本の銀行は以前と違って在日外国人にも融資し始めたので、民族銀行の財政が悪化したということだった。とはいえ、披露宴会場のホテルを横切って携帯電話で話しながら歩み寄り、がっちり握手する朝鮮高校同期の金田タクシー経営者・金世一と、金融業者の朴光洙が、ゴルフ場建設を夢見ながら、結局最後には金融やくざの毒牙にかかる展開を見ても、事業面での「社会主流化」は未だしの観を受ける。

 ユダヤ系もハリウッドを確立する以前は、零細資本で映画製作を続けてきた。またアフリカ系の映画製作には近年やっと、ハリウッドの資本投下が行われるようになってきた。それ以前アフリカ系が零細資本で製作した名作、メルヴィン・ヴァン・ピープルズ監督・主演作品『スィート・スィートバック』も、やっと昨年日本に紹介されたが、大手資本参加の『マルコムX』も同じ年に日本で上映されたことは、二作品を隔てるアメリカでの長い道のりが日本では省略されたことになり、遅れた日本の多元化が急ピッチで進行し始めたことを窺わせる。日米の遅れは、約三十年に及ぶ。

 日本の芸能界・スポーツ界には、数多くの在日韓国・朝鮮人が大スターとして活躍しているが、ほぼ全て日本名を名乗り、彼らの出自を明らかにしていない。彼らはあくまで日本人のヒーローとして活躍、日本人観客らも大半はそれと承知の上で彼らの演じる日本人像にうっとりとなる、ふしぎな経緯をくり返してきた。さらにふしぎなのは、日本のやくざ組織にもマイノリティと部落民が多数幹部として参画しているが、その出自は秘匿され、警察権力や敵集団との抗争劇を一般日本人の一部は日本古来の任侠道の発露として身勝手な共感を持って眺め、さらにその一部始終を映画化したものにうつつを抜かすことである。崔監督が『月はどっちに出ている』で、ほぼ全ての在日韓国・朝鮮人役を日本人俳優に演じさせたのは、その事態に対する痛烈な反撃のような気もする(同時に、この映画で日本人俳優らは在日韓国・朝鮮人になりきっており、彼我の民族的同根性を強烈に印象づけ、にもかかわらず存続してきた差別のおぞましさを浮き彫りにする戦略でもあるようにも思われる)。

 アメリカでも一九六〇年代のカウンターカルチャー以前、主にユダヤ系のプロデューサー、監督、俳優らは、「アメリカ人」を演じてきた。私たち日本人がアメリカ人の民族的背景にうとくなった一つの理由は、この時期のハリウッド映画で民族的背景抜きの「アメリカ人」を見せられすぎたせいである。ともかくイタリア系のヘンリー・フォンダがワスプのワイアット・アープを演じ、ロシア・ユダヤ系のカーク・ダグラス(本名イズール・ダニエロヴィッチ)がやはりワスプのドク・ホリディを演じたが、私たちは違和感など感じるだけの知識がなかった。一方、アメリカ人の観客はそのことを承知していたにもかかわらず、彼らですら違和感を覚えなかったのである。日本人観客が、在日韓国・朝鮮人の演じる日本人像に違和感なく感情移入してきたのと同じだった。これは映画の魔術だったが、一九六〇年代以降ユダヤ系その他のマイノリティらは、公民権運動の刺激を受けて自らの姿や生活を映画で演じ始めた。『月はどっちに出ている』は、それより三十年後に製作された。この時間的差異は、日本の多元化の遅れを計る目安になるだろう。

〔エスニック・ジョークによるPC問題の鬱積払拭番組〕

 日本で差別表現の事前自己検閲による差別隠蔽が一種の極限まで突き進んだのは、大雑把にいって右の低コスト戦術と高コスト戦術という差別意識改革の車の両輪が作動せず、低コスト戦術という片方の車だけが動いていたせいである。低コスト戦術はマジョリティ側の差別表現使用を糾弾するが、高コスト戦術はマイノリティが作る作品の中にエスニック・ジョークの形で差別表現を頻出させる。スパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』でアフリカ系の顧客と韓国系の雑貨店主が、すさまじい形相でたがいの差別的呼称をわめきあう場面はご記憶だろう。『月はどっちに出ている』では、在日韓国・朝鮮人、在日フィリピン人、そして日本人が、たがいに差別的呼称をわめきあう。二つの作品の活力が、エスニック・ジョークの応酬に多くを負っている点は共通している。

 PC問題に抵触せず、安心してジョークの標的にできるのは白人男性だけで、白人女性、マイノリティらは競って白人男性を標的し、それが芸能界の重要レパートリーになっている。しかしエディ・マーフィなどは、全米ネットワークのテレビ番組のスタンダップ・コメディで、白人だけでなく同胞も槍玉にあげ、PC問題の鬱積にはけ口を提供するので、白人観客にばか受けしている。『月はどっちに出ている』は、これと同じ機能を果たしているわけだ。スティーヴィ・ワンダーとポール・マカートニーが黒人をエボニー、白人をアイヴォリーと婉曲化し、両人種の連帯を歌ったのを捉えて、マーフィがワンダーに扮し、白人コメディアンをシナトラに仕立て、二人してたがいの弱みを突き合ってワンダー=マカートニーの甘い連帯をぶち壊し、「黒は黒、白は白、それがどうした」と居直る。これは差別表現糾弾戦術をマイノリティ側からぶち壊してみせたわけで、日本でこんなことが起こっていたら筒井康隆も愁眉を開き、直ちに断筆宣言を撤回しただろう。また『風と共に去りぬ』の舞台アトランタ近くのマリエッタに「コットン・ランド」という綿繰り工場を作り、マーフィはスカーレットの大農園の奴隷頭ビッグ・サムに扮し、なんとそこへ「白人奴隷」を受け入れ、さんざこき使っている。この白人奴隷たちは、先祖の罪を償うべくここへ体験入所している普通の市民たちという設定で、マーフィが「この『白人贖罪用テーマ・パーク』でこき使われりゃ、過去の罪なんて風と共に去りぬさ」とやると、観客は白人・黒人双方がばか笑いしている。これは一九九六年のアトランタ・オリンピックを当て込んで建設中の「風と共に去りぬテーマ・パーク」をあてこすっているのだ。在日韓国・朝鮮人のコメディアンが、韓国人の監督に扮し、日本人を炭鉱に強制連行、こき使う場面を演じた場合、こういうエスニック・ジョークに不慣れな日本人は顔がこわばるだけだろう。

〔「フォード英語学校坩堝」とマイノリティ抹消心理〕

 低コスト戦術の欠点は、主流派側の過剰防衛反応を引き起こし、差別隠蔽を加速させ、差別の存在を糊塗するどころか、ついには被差別側が存在しないところまで追い込んでしまう点だ。例えば朝鮮人という呼称すら使用を控える傾向が出てくるのである。『ライジング・サン』では、アフリカ系アメリカ人を父に、日本人を母に持つ混血の女性が、自分をあいのこと呼び、被差別の経験を部落民になぞらえる箇所が、日本側輸入元の事前自己検閲によって削除された。これでは部落民も存在を消去されたことになるではないか。アメリカの場合、主流派も抗議を受けるまでは差別表現を消去しないし、かりに消去されてもエスニック・ジョーク番組があるから、差別の現実が存在することまでは消去されずに、全てのアメリカ人に伝達される。日本では事前の自己検閲で一切が消滅してしまう。そして差別糾弾側も、その営為の果てに自らの存在を差別側に抹消させる口実を与えてしまうことになるのである。

 この傾向は、かつてアメリカでとられた同化政策の裏返しだ。フォード自動車では、移民従業員を「アメリカナイズ」させる教育を施し、その卒業式では彼らにこんな儀式を演じさせた。まず舞台の一番高い場所に、「多数の統一」というアメリカの国是が掲げられ、この教育に携わった教員らが船員に扮し、「船荷は何だ?」と叫ぶと、「ハンキー約二百三十名!」という返事が返ってくる。「ハンキー」とは、ハンガリーなど東欧移民の蔑称である。移民は「船荷」に還元されていたわけだ。船員役の教師が、「連中を坩堝へ放り込め。その成果のほどは見てのお楽しみだ」とどなる。みすぼらしい民族衣装をつけた卒業生らが、自分の民族集団名を記したプラカードを掲げて「坩堝」の中に入っていく。坩堝には、「フォード英語学校坩堝」と大書されている。やがて校長が「かきまぜろ、かきまぜろ!」と叫ぶと、教師たちが長いひしゃくを坩堝に突っ込み、一斉に中をかきまぜる仕種をくり返し、やがて坩堝の中からぱりっとしたビジネス・スーツに着替えた移民たちが星条旗の小旗をうちふりつつ「アメリカ人」として出てくるのである。教師が彼らに「何人だ?」と訊くと、生徒らは一斉に「アメリカ人です」と答える。教師が、「ポーランド系アメリカ人じゃないのか?」と念を押しても、彼らは「いや、アメリカ人です」と答える。「何々系」という呼称は、同化政策ではマイナスと見られたからである。ハリウッドでかつてマイノリティたちが演じた「アメリカ人」とは、「坩堝で民族性を溶解されてできたアメリカ人」とは別物だったが、「アメリカ人」を演じたマイノリティ俳優らにしてみればまさに自らの民族性を坩堝で溶解させてワスプを演じていたのである。

 朝鮮人や部落民という正式呼称すら隠蔽する裏の動機には、「彼らを『ジャパナイズ』して、彼らの民族性や歴史的背景を坩堝で溶解し抹消してしまえば、一切の問題は解決する」という同化政策的心理が裏返しに働いていると思われる。この裏返しの同化政策的心理は、「高度管理社会が手のつけられないほと発達した今日、日本人としてのアイデンティティまで風化する過程で、マジョリティの日本人すら民族性が曖昧になるのなら、在日外国人や部落民はもとより、沖縄、アイヌの人々のアイデンティティが希薄化するのは当然だ」という隠れた認識が前提になっているのではないだろうか。しかしそれは逆なのだ。現に極端な不作に陥った日本映画界に活を入れたのは、差別ゆえにアイデンティティが強化された在日韓国・朝鮮人製作の映画だったではないか。

〔「だめなマイノリティ」を描くには喜劇でなければ〕

 このマイノリティ消去に抵抗するには、マイノリティ文化をマジョリティ文化にぶっつけて存在を誇示し、あわよくば高度管理社会化の過剰進行によって起こったマジョリティ文化の衰退を阻む一石二鳥の戦術を実行に移すしかない。ただし、マイノリティ文化の表現に当たって重要なのは、作品を喜劇にできるかどうかということである。

 元来、演劇では悲劇が喜劇より格上という偏見が存在するが、これはジョーゼフ・ミーカーの『喜劇とエコロジー』(法政大学出版局拙訳)によれば、「悲劇が人間を他の動物より格上と見る非現実的な思想を基礎にして成立しているのに対して、喜劇が人間を動物に還元する、より現実的な視点を基礎にしていることに起因している」。主流派民族集団の観客すら悲劇で自分らのヒーローの尊厳に満ちた悲劇的生涯に浸りたがる。『忠臣蔵』はその典型だ。ましてや長らく非主流派民族集団の境涯に貶められ続けてきたマイノリティの製作者や観客の場合、気分的にも戦略的にも自分らの運命を代表するヒーローには尊厳に満ちた悲劇的演技を期待する。しかしここに落とし穴が待ち構えているのだ。つまり、「マイノリティの主人公は全て『モデル・マイノリティ』でなければならない」という偏見の罠に自ら陥ることになるのである。モデル・マイノリティの理想像は、彼らが置かれた政治的状況を常に作中で反映することだ。例えば在日朝鮮人三世の娘(潤子)と日本人青年の恋愛を描いた『潤の街』(金佑宣監督)では、民族的課題としての祖国統一や差別問題が日常的な台詞の端々にまで浸透、登場人物たち個人の生活がその重圧でかすんでみえるもどかしさがあることを、ルポライターの黄民基が指摘している(別冊宝島『映画の見方が変わる本』「『殺しの軍団』在日朝鮮人映画の突破口」)。

 ちなみに日系アメリカ人は、移住のカルチャー・ショックを生き延びるために必ず登場した、イタリア系のマフィアのような移民ギャング集団をまるで生み出さなかった珍しい民族集団なので、「モデル・マイノリティ」と呼ばれて、アメリカ人総体からふしぎがられている。日本のやくざ組織との関連を思うと、本当に奇妙としかいいようがない。

 ともかくマイノリティ側が、「モデル・マイノリティ」指向になると、「だめなマイノリティ」は、永久にタブーになってしまう。そして喜劇のヒーローこそ、人間の動物への還元、つまり人間のエコロジー的コンテクストへの格下げという運動律を生きる存在だけに、模範的な人物ではお話にならないのである。「だめなマイノリティはだめ」というタブーは、低コストの戦術への逆戻りになるのだ。

〔主流派が「だめなマイノリティ」を描くと「ステレオタイプ化」〕

 しかしマジョリティが、「だめなマイノリティ」を描くことは、やはり充分な思想的詰めが前提になる。『風と共に去りぬ』がアフリカ系から否定的に見られた根拠の一つとなったのが、メラニーがアトランタ攻囲中に産気づき、医師は膨大な数の負傷兵の手当てに出払って困惑したとき、「あたいは産婆の経験があるから大丈夫」と嘘をついて土壇場でスカーレットにひっぱたかれるプリシーというアフリカ系の奴隷メイドの場合である。アフリカ系は、「同胞の無能さを誇示するステレオタイプだ」と憤慨したが、白人たちは「メラニーの叔母ピティパットを子供大人として否定的に描いているんだから、あいこじゃないか」と反論した。しかしプリシーを見て、世間は「だから黒人はみんなだめなんだ」とアフリカ系全員を否定的に見るのに対して、ピティパット叔母を見ても「白人にもたまにはああいうのがいるさ」と、白人のごく一部のマイナス分子と見るだけでおわる。この違いは、アフリカ系がマイノリティなのに対して、白人はマジョリティだからで、プリシーをアフリカ系全員の「だめさ加減」の象徴と見てしまうことを「ステレオタイプ化」というのである。アフリカ系は、これには低コストの戦術で攻撃せざるをえない。

 『風と共に去りぬ』はデーヴィッド・O・セルズニックというユダヤ系が製作したが、ハリウッドでのユダヤ系は主流派であり、原作者マーガレット・ミッチェルはアイリッシュとスコッチの混血で、アトランタでは上流階級に属していた。従って主流派が「だめなマイノリティ」を描くことは、ステレオタイプ化に繋がるが、マイノリティ自身がそれを描くことは、少なくとも政治的にはステレオタイプ化ではない。前述のPC(政治的妥当性)の真意は、そこにあるのだ。

 だから当分の間は、マイノリティを主人公にした作品は、マイノリティが製作したほうがPCだという雰囲気はアメリカにもある。例えばスパイク・リーが、マルコムXを映画化しようとしていた白人監督ノーマン・ジューイスンを、「白人にマルコムXが描けるはずがない」と批判、ジューイスンは萎縮して手をひいた。萎縮するくらいならリーが作ったほうがよかったわけだが、リー自身は、「アフリカ系を映画資本から排除しながら、苦しみに満ちたアフリカ系の体験だけは素材として横取りする白人の総体的傾向をジューイスンが代表している」と、闘志を燃やしたのである。この傾向の最たるものはエルヴィス・プレスリーで、彼は金髪を黒髪に染めてまで、アフリカ系の歌唱法を盗んで、その利益を独占したことになるのだ。エディ・マーフィも、ビートルズが黒人の歌唱法やヘアスタイルを盗んだとするコメディを演じて観客を笑わせたが、白人・黒人双方が苦い事実を承知で笑っているのだ。多民族社会では、笑いもほぼ常にブラック・ユーモアで、その点日本の漫才の笑いのように単純ではない。ともかく、かりに筒井事件が、てんかん患者の作家との競合という形をとっていれば、筒井も断筆でなくジューイスンの轍を踏んだかもしれない。表現の自由にかこつけて主流派が非主流派を表現活動から排除し、彼らの苦悩を素材として略奪してきたことは、政治的・社会的不公正であり、表現の自由を声高に叫ぶだけでは解決できない、「社会的公正」の次元の問題なのだ。

〔マイノリティの視点から打たれた日本には「入口」も「出口」もない?〕

 『月はどっちに出ている』は、マイノリティの監督が「だめなマイノリティ」を描いたので、「ステレオタイプ化」自体が社会的不公正ではなく、人間の喜劇性と悲哀を強調する武器になった。同時に『潤の街』で黄民基が洩らした不満、つまりマイノリティの「社会派映画」の重苦しさも、『月はどっちに出ている』冒頭の民団と総連、ひいては南北統一を象徴するはずの結婚式すら、双方の面子争いをコミカルに描き、在日韓国・朝鮮人の戦後史最大の政治課題を、あくまで主人公のタクシー運転手・姜忠男の次元(披露宴の間中、忠男は出席した娘たちを口説くのに熱中する)にひきおろすことで、作中世界に自由な空気を呼び込むことに成功した。ちなみにアメリカでは、母国での葛藤を移住先でもひきずっている例は、今日のセルビア系、クロアチア系の葛藤など数多いが、ここまで喜劇化した作品を生み出せた例はあまりないのではないか。

 この映画を見ると、改めてステレオタイプ化は喜劇の中心的な武器であることを教えられる。その最たるものが、パンチドランカーの日本人運転手ホソの決まり文句「チョーセン人は嫌いだけど忠さんは好きだ」で、これをくり返し聞かされているうちに、私たちは「ほぼ全ての日本人が在日韓国・朝鮮人にこういい続けてきた」ことを思い知らされる。ホソはこの台詞の後に決まって、「金貸してくれよぉ」と続けるが、黄民基の嫌う社会的意味をあえて追加すれば、日本人は在日韓国・朝鮮人に対しては「借方」で終始してきたことを覚らされるのである。

 また題名の由来となったタクシー会社の事務員・仙波の台詞は、自衛隊を退職した運転手、その名も安保のものすごい方向音痴ぶりに注意するときのものであるために、日本の国防、ひいては日本そのものの外交音痴を揶喩されることになる。マイノリティは周辺からマジョリティを見るがゆえに、後者の舵とりの不安定さが笑いの種になるのだ。

 この映画のステレオタイプ的台詞のほとんど全てが、日本の支離滅裂な矛盾に対する風刺になっており、その風刺を最も基礎的な次元だけで生きている姜忠男の視点から放射しまくるものだから、私はなんだか数十秒おきに笑っていた記憶がある。マイノリティの視点から打たれた日本が、マジョリティの製作した映画のうっとうしいほど甘ったるい日本に比べて、これほど痛快にメタメタにされるこの事実こそ、私たちに『月はどっちに出ている』、そして以後陸続と製作されるはずのこの系譜の作品が、日本映画界だけでなく、日本人観客の日本観をも拡大できるという希望を与えてくれるのだ。またこれらの映画は、日本人のマイノリティ観を成熟に向かわせ、同時にマイノリティたちは周辺部から日本の中心部に弾丸を打ち込めるという確信をものにすることができる。

 私はある程度映画の筋が進んでから、「あ、これは椎名麟三の世界だ」と思った。椎名も決まり文句を登場人物に与え、その反復によって濃密な喜劇的作中世界を編み上げる名手だったのだ。むろん彼は、戦後の日本、一切の価値観が逆転し、焼け野が原となって、あたり中出口だらけにみえるくせに、いざとなると出口が閉ざされているふしぎな状況から文学的栄養分を吸収していた。崔監督、そして原作者の梁石日らは、日本のマイノリティとして社会の周辺に遠ざけられ、一見どこからでも入っていけそうにみえるくせに、いざ入ろうとすると至るところで締め出される奇怪な状況を栄養分にしている点で、椎名と共通していたのだろうか? 主流派下層に属する椎名にとっては「出口」だったものが、崔らには「入口」だった。在日韓国・朝鮮人には、二世、三世以降ともなれば、日系アメリカ人が日本を外国としか見られないのと同様、「母国」は外国だ。だからマイノリティは、常に「入口」を求めるしかない。そのために作中で濃密な雰囲気を漂わせる金田タクシーは、椎名の出口がありそうでない状況ではなく、「入口」が見つかるまで生き延びる培養基にすぎない。それともアメリカの諸都市にがっちりと確立されて、脱出不可能となっているアフリカ系やヒスパニックのゲットーと同じく、出口を求めてむなしくあがく場所なのだろうか? 結局金田タクシーは金融やくざの罠にかかって破産するが、経営者・金世一は忠男と朝鮮高校の同期であり、やはり同期の朴光洙が金融やくざと組み、一種の同士打ちを演じるはめになる点で、「入口」はついになかった結末になるのである。同時に私たち主流派には、「出口」がなかったことになる。辛うじて忠男がフィリピン娼婦のコニーに行く先を訊いたとき、彼女が「マニラまで」と答えたことが、二人にとっての「入口」を暗示するだけだ。

〔マイノリティの作品が日本の資産となるとき〕

 「芸術が挑発性を奪われれば、制度にとり込まれ、ブルジョワ化する。丁重な芸術ほど始末の悪いものはない」。これはハリウッドの脚本家兼作家デーヴィッド・フリーマンが、PC問題に反発して吐いた言葉だが、これは筒井事件をめぐって筒井初め大半の文筆業者が口にしている趣旨と一致している。フリーマンが「制度」や「ブルジョワ化」という言葉にマイノリティ側も含めている点が、混乱を引き起こしているのだ。マイノリティにとっては、「制度」や「ブルジョワ」はマジョリティ側にあり、そこへの「入口」を模索しては排除されてきた。差別性を削除された作品は、マイノリティ側からの攻撃を回避できるから、マジョリティ側が安心して「制度」にとりこみ、「ブルジョワ化」を認め、その作品は「丁重な芸術」、つまり「フリーパス」となるのである。『キューポラのある街』は、NHKが浦山桐夫監督の追悼放映を行ったとき、「朝鮮人」という台詞が全て削除してあったという。

 フリーマンや筒井事件の発言者らが絶対に触れないのは、低コストの差別糾弾戦術が生まれてきた必然性だ。くり返すが、マイノリティにはあらゆる「入口」が遮断され、自分たちの歴史や現状をマジョリティに向かって表現するだけの資力も政治力も入手できなかった。日系俳優マコは、ブロードウエイ・ミュージカル『ミス・サイゴン』の主役、欧亜混血のぽん引きの役を「アジア系俳優によこせ」という大アファーマティヴ・アクションが一敗地に塗れたとき、「アジア系はハリウッドや芸能界ではプレーヤーではない」という有名な台詞を吐いた。『ライジング・サン』では、原作では白人だった主人公の警部補の役が映画ではアフリカ系俳優ウェズリー・スナイプスにふりあてられた。これは白人とアフリカ系が「団結して」日本人の侵略に抵抗する戦略的ジェスチャーだったが、アフリカ系俳優のアファーマティヴ・アクションは彼らの長い闘争歴から成功率が高いのだ。

 ただ低コストの戦術は、アメリカでも「リベラル・ファシズム」として主流派の猛烈な反発に曝され始めた。その典型は、最近日本でも翻訳が出たヘンリー・ベアードとクリストファ・サーフの『正式PC辞典』(文芸春秋)だ。またポール・バーマン編集の『ディベーティングPC』(ローレル・トレード・ペーパーバック)では、この低コスト戦術の是非が歯に衣着せずに議論されている。また差別糾弾を恐れる度合いは、アメリカでもノイローゼの域にまで達しており、例えば日本叩きの前評判かまびすしかった『ライジング・サン』の入場券予約の電話でヴェトナム系の本名を名乗ると、「売り切れです」といわれたのに、同じ人物が白人風の偽名を名乗ると予約がとれた。中には「アジア系への割り当て(クォータ)(ルビ)は売り切れました」といわれた場合もある。「割り当て」とは、移民の国別割り当てやアファーマティヴ・アクションの人口別割り当てに使う言葉であり、映画関係者がそれらのPC用語を逆手にとって反撃していることがわかる。

 低コストの戦術の限界は、マイノリティ側に生産手段が欠落していることである。『ちびくろサンボ』が、「サンボ」と貶まれてきた黒人たちの膨大な量の辛酸に比べて、芸術的レベルの点でどれほどとるに足りない駄作であっても、植民地インドの医官夫人という恵まれた境涯にいた白人の作者はそれを生産・公表する手段を確保し、その結果無邪気なファンを獲得できたのに対して、黒人側はその作品を凌駕する児童物を生産し、理解力のある味方を獲得する手段がなかった。このことは、ある程度は筒井とてんかん協会の関係についてもいえる。

 そこで高コストの戦術ということになるのだが、幸いなことに『月はどっちに出ている』が登場して、まさに「出口なし」の印象がある筒井問題に突破口を提供してくれた。この映画に圧倒的共感が集まったのは、これこそまさしくPCかつAC(芸術的妥当性)な映画であることが、ほとんどの主流派日本人に瞬時に納得できたからだ。後はマイノリティ映画が陥り易い罠、「モデル・マイノリティ」を主人公とすることに注意しなければならないこと、そしてゆくゆくはマジョリティもマイノリティを喜劇的に描け(ヒューイスンがマルコムXを描けるように)、マイノリティがマジョリティを喜劇的に描ける(これは天皇制、企業の閉鎖性、政治家の汚職に悲憤慷慨する正義派の日本人等々、無限の宝庫である)時代がくること、が課題となるだろう。ヒスパニック俳優エドワード・J・オルモスは、不良性を帯びたボリビア系の数学教師ハイメ・エスカランテが、不良だらけのヒスパニック高校で全米でも非常に合格がむつかしい微積分のAPテストで合格者を輩出させる経緯を描いた映画『スタンド・アンド・デリヴァ』(原作ジェイ・マシューズ『エスカランテ』宝島社・越智・樋口訳)で、同胞子弟に模範を与えた。ついでオルモスは、『アメリカン・ミー』で台頭著しいメキシカン・マフィア、「ラ・エメ」の領袖ルドルフォ・シャイアン・カデナを否定的に歪曲して描いたとして、「ラ・エメ」から命を狙われている。彼はギャング化する同胞子弟を救おうとして、彼らの偶像を破壊したのだ。しかし、このようにマイノリティの製作活動自体がAC指向とPC指向の均衡を失い、PC指向に偏ると、折角引き寄せた投資家たちが離れていくだろう。

 『月はどっちに出ている』を大歓迎した日本人らは、ちゃっかりこの映画を自分らの資産と見て歓喜している。しかしそれは、マイノリティ製作者らにとっても、ついに「入口」を通過したことを意味する。ユダヤ系は無数の映画をアメリカの資産に加え、近年ではアフリカ系が新資産を提供し始めた。資産増加に歓喜している日本人たちの手前勝手さを、マイノリティの製作者たちは乗り逃げ日本人客を追い詰めたあげく料金を払わせてから、丁重に頭を下げて礼をいった姜忠男のように、逞しい神経に支えられた苦笑でもって受け止めてくれるだろうか?
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