本文へジャンプ 越智道雄のページ   文字サイズ コントラスト
映画top

映画10_17.『善き人のためのソナタ』

「異化作用」が人間性回復に繋がる機微

 この映画は10万人を擁していた東独の秘密警察シュタージ(STASI。国家公安局のアクロニム)の諜報員が主人公ながら、スパイ映画ではない。題名の通り、「他者」と「自分」の相対的な関係が主題である。

 私たちは、他者の生活がノンフィクションとして物語化されないかぎり興味が持てない。剥き出しの他者はうっとうしいだけだ。

 逆に自分自身は他者化されて初めて興味が持てる。だから作家は小説で自分を他者化し、俳優は他者を演じてこそ初めて人間性にめざめるのである。

 うっとうしい他者の物語化、自分自身の他者化を、演劇用語で「異化作用(ディファミリアライゼーション)」と言う。「おなじみなものをなじまないものに変える」ことを意味する。

 この映画は、シュタージのベテラン、ハウプトマンが有名な作家ドレイマンと女優クリスタ=マリア・ジーラントの生活を盗聴する形で、他者の物語化がなされる特殊な構成を持つ。標的は作家、女優と、ともに異化作用を生業とするが、ハウプトマンはお手のもののスパイ行為が異化作用に繋がるのだ。

 ハウプトマンは社会主義の大義を信じてシュタージ養成の大学で講義もし、出世主義の上司(友人)を内心で批判し、同時に標的の東独人たちに優越感を抱いてもいる。しかし、作家と女優に対して初めて自分の優位を失うのである。それは押し殺してきた人間性の数量の違いなのだが、彼は気づかない。

 だから、この映画はスパイものではなく、全体主義社会の東独という最も非人間的な状況でも、いや、だからこそ、究極の人間性が保持される感動がドラマの中核になっている。このスパイはほとんど台詞がなく、彼の微妙な沈黙の演技だけで目的を果たしたこの映画は、視覚映像が命の映画の本道を行くものだろう。ドイツ映画の最高賞ローラ・ドイツ映画賞の他に幾多の賞を独占した所以である。それもそのはず、俳優ウルリッヒ・ムーエの妻は、20万人いたシュタージの情報提供者の一人だった。1974年、当時の西独首相ブラントの側近もシュタージだったのだ。

 とはいえ、シュタージの残党は今日、「左翼政党」を結成、この秘密警察の元尋問拠点を博物館化、旧悪を暴露する動きに抵抗を続けているから、この映画はその現実政治の只中に置かれていもいるのである。

 ナチス支配から間を置かずにソ連支配へと移行、民主主義をかいま見る暇もなかった東独、特にシュタージは、400万人の市民の西独逃亡、西ベルリンの壁など国境での逃亡未遂者1000人の射殺の惨禍を招いた。

 女優クリスタ=マリアに邪恋を抱く情報相の密かな手引きで、ハウプトマンは彼女と作家の盗聴を開始した。ところが、作家の友人の舞台監督イェルスカが反党活動の容疑で自殺後、女優ひとりを相手にとはいえ、作家が公然と反党発言を繰り返し始め、ハウプトマンは二人を守るため初めて盗聴記録の改竄に手をつけ、自身、反党行動に走り出す。

 映画ではハウプトマンのスパイとしての確固たる日常がまずみごとに描かれ、次いでその日常の崩壊は人間性への覚醒なのだが、この変化もみごとに活写される。例えば、ハウプトマンが乗り込んでいるエレベーターにフットボール、次いで持ち主の少年が飛び込んできて、いきなり「おじさんってシュタージ?」と聞く。「誰から聞いた?」と問い返すハウプトマンに対して、少年は「お父さん」と答える。「名前は?」と父親の氏名を聞こうとして聞けず、諜報員は「ボールの名は?」とトンチンカンな聞き方をして、少年から「おじさん、おかしいんじゃない? ボールに名前なんて!」と言われてしまう。諜報員の確固たる日常にひび割れが入る印象的な瞬間だった。

2006年度の3作(越智道雄)。

1.『クラシッシュ』
 スパイク・リーが描くべき主題をスコットランド系の監督が横取りし、しかもアカデミー賞最優秀作に選ばれた経緯が、黒人のリズム&ブルーズを横取りしたエルヴィス・プレスリーの大成功の繰り返しと見られる点。

2.『善き人のためのソナタ』
 芸術活動の基本、「異化作用」がシュタージという特殊かつ世界史的な環境設定でいかんなく描き出されたアングルの面白さ。

3.『カポーティ』
 従来は虚構によって中和されてきた芸術家の現実直視の残酷さが、フィクションの衰退、ノンフィクションの興隆という新たな文化的環境において中和されようがなく剥きだされた点。おかげでカポーティは以後、書けなくなった。
一番上へ
Copyright ©2009 Michio Ochi All Rights Reserved. Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!
inserted by FC2 system