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映画10_7.『ライジング・サン』

〔「パラノイアとしての日米摩擦」はどこからくるのか?〕

『ライジング・サン』は、この夏ニューオリンズとアトランタで見た。観客はいずれも白人が多数、二、三割が黒人だった。入りは夜の部の前者でほぼフルハウス(約四百名)、午後遅めの後者では三分の一(数十名)、日米双方をちゃかした箇所では公平に笑っていた。しかし次の二箇所では、一様に軽くどよめいた。まず白人の高級コールガール(タチャーナ・パティツ)殺しの犯人が、日本人でなくアメリカ人(連邦上院議員)だと分かったとき、そして彼すら真犯人でなく、本当はナカモト・アメリカの「お雇いアメリカ人」だと判明したときである。

 殺人事件は落成式最中のナカモト・アメリカ(ロス都心)の会議室で起こる。このビルは、タナカという保安管理の責任者の下で集中管理されているので、殺害場面がモニターテレビに録画されており、ジョン・コナー警部(ショーン・コネリー)らが紆余曲折の果てに入手したモニター用CDでは、最初エディ・サカムラ(ケアリー・ヒロユキ・タガワ。ナカモトと対立するケイレツの幹部の放蕩児的御曹司)の顔が復元されてくる。復元というのは、彼の顔が消去された後復元されるように仕掛けが施された贋造CDだったからである。そのサカムラが、買収していたタナカから入手した本物のCDを友人のコナーに提供すると、そこにはジョン・モートン上院議員(レイ・ワイズ)の顔が映っていた。ちなみに原作ではビデオなのが、映画では技術革新の急ピッチぶりを反映してCDに切り換えられている。

 贋造CDを作らせたのは、ナカモト・アメリカの若手幹部イシハラ(スタン・エギ)だった。原作ではイシグロだが、映画では石原・『NOといえる日本』・慎太郎にひっかけて改名してある。モートン上院議員は日本叩きで売っている人物だが、イシハラは彼にコールガールを取り持ち、潜在的味方に引き入れている。日本贔屓の政治家はもはや利用価値がなく、日本叩きの政治家をとり込むしかない状況にまで、日系企業が追い込まれているのだ。その議員が、首を締められないとオルガスムスに達しないコールガールを誤って殺したと錯覚、イシハラに救いを求めたのを、彼は部下の「お雇いアメリカ人」に命じてコールガールを本当に殺害させ、一層議員に対する支配を徹底させた。

 この一連の経緯には、「パラノイアとしての日米摩擦」のメカニズムがかなり象徴的に露呈している。元来、最もボーダーレスな人間活動は経済活動と科学活動である。この二つ以外の活動、つまり政治、文化(宗教を含む)、教育、国防、外交などは、民族国家の概念に則った極めて「ボーダーフル」な活動だ(この英語は私の造語)。本誌に掲載を続けてきた拙稿で頻繁に触れてきた「高度管理社会」は、ボーダーレス活動としての科学と経済活動によって実現したにもかかわらず、それが未だにボーダーフルな民族国家の枠内でしか成立していない。この巨大な矛盾は、今世紀末から二十一世紀にかけて世界的に増幅されるすさまじい規模のパラノイアの究極的原因となる。日米摩擦は、この巨大な矛盾のコンテクストで眺められなければならないのだ。

 『ライジング・サン』では、イシハラ側とコナー側が共に、ボーダーレス活動の典型的産物であるコンピューター・グラフィクスを駆使して、日米摩擦という極めてボーダーフルな現象ゆえに発生した犯罪の隠蔽とその解明を競い合う。しかも事件は、ナカモトが左前になったアメリカのエレクトロニクス会社マイクロコンを買収する過程で起こる。イシハラが買収に反対するモートン議員の買収を計った結果、コールガール殺人に至るのだ。 ちなみに企業は強いほうがボーダーレス化し、弱いほうが身を守るためボーダーフル化する。アメリカの自動車会社、特にクライスラーのアイアコッカの反応はその典型だった。ただしマイクロコンの首脳はナカモトの買収には柔軟で、モートン議員のような政治家が集票のためボーダーフル化する。マイクロコンは、アメリカ最後のエレクトロニクス会社という設定になっており、それすら日本に買収されるという危機感が作中世界に漲っている。しかもイシハラは買収交渉の席で、タナカにモニターテレビでマイクロコン幹部の内輪の会話を読唇術で解読させ、自身はその解読を同じ交渉の場でイアホーン受信して交渉を有利に進めようとする。この会議室は、コールガールが殺害された場所であり、タナカが駆使するモニターテレビは、殺害現場を捉えた装置なのだ。

〔なぜ映画では真犯人をアメリカ人にすり替えたのか?〕しかしロス市警切っての日本通であるコナー警部は、最もボーダーフルな人間活動である日米相互の文化活動がたがいにボーダーを越えたとき生み出す「文化的差異(カルチュラル・ディファレンス)(ルビ) 」の沼気をも払って、事件の核心に迫らなければならない。この犯罪は「文化的差異」によって惹起された日米摩擦を糊塗するために発生し、それをイシハラがコンピューター・グラフィクスで糊塗し、さらに同じハイテク技術でそれをコナーが解明したわけで、この経緯自体に、ボーダーフル的要素が生み出す摩擦はボーダーレス的要素によって解決するしかないという寓意が籠められていると見てよい。しかしそこへいくまでは、コナーのようなクロスカルチュラルな視点から事件を追求していく人物が不可欠となるのだ。

 しかもハイテクから疎外された一般の人間たちは、猛烈にボーダーフル化し、民族国家や民族性に固執する。本来ボーダーレスの極致であるはずの「高度管理社会」がこれらの「国境」の枠内に閉じ込められる矛盾のゆえに、パラノイアが一層増幅される所以である。ハイテクから疎外された下層、そして人文系知識人からなる中流層には、それしか拠り所がないからだ。ボーダーレス時代のサバイバルが困難な人間たちは、ボーダーフル的要素に依拠するしかない。この相剋はアメリカでは、映画、自動車、航空機、ラジオその他科学万能の一九二〇年代に、それに反発する保守派の抵抗という形で顕在化した。ボーダーフル的要素の最たるものは、福音派・聖書根本主義派というキリスト教右翼で、この悪しき人文主義的勢力は現在も活動を続け、共和党を乗っ取りかけている。この勢力が直接日本叩きに携わるわけではないが、ボーダーレス的要素の支配によって惹起されたボーダーフル的要素側のパラノイアを代表する集団なのだ。

 また原作では白人だったピーター・スミス警部補を映画では黒人のウェブ・スミス(ウェズリー・スナイプス)にしたのも、公民権運動以来アメリカに高まるマイノリティの権利主張に呼応しての「文化的・民族的配慮」であり、殺人者をイシハラから〔リチャーズ〕にすり替えたのと、本質は同じである。また日本叩きは、白人だけでなく黒人にも分担させたほうが、黒人が日本側にとり込まれずにすむという分割統治的配慮も働いている。いずれにせよ、私がこの映画を見た二都市とも黒人人口は多く、従って二、三割という多めの黒人観客がいたのは、このすり替えにも多少は起因している。

 従って「文化的差異」による摩擦は、ますます深刻化せざるをえない。しかもイシハラがコンピューター・グラフィクスを駆使してサカムラを犯人にでっちあげる経緯は、ボーダーレス的要素自体がこの摩擦を増幅させる悪しき傾向を象徴している。パラノイアとしての日米摩擦とは、幻影としての日米摩擦である。コンピューター・グラフィクスのさいはてには、ヴァーチュアル・リアリティの世界が控えている。日米摩擦の現実度と非現実度の誤差を考える場合、われわれは常にヴァーチュアル・リアリティとしての日米摩擦という幻影的誤差を想定せざるをえない。

 コンピューター・グラフィクスによって真犯人が日本人(エディ・サカムラ)ではなく、アメリカ人(モートン上院議員と〔リチャーズ〕)だったと解明することは、「今日のアメリカにとって先決なのは日本叩きよりむしろアメリカ叩きである」ことを主張していることになる。これは原作者マイクル・クライトンが、再三インタヴューで答えていることだ。ただし原作では、真犯人はイシグロ(イシハラ)だから、クライトンは日本叩きの必要性を認めていることになる。小説ではイシグロ(イシハラ)、映画では〔リチャーズ〕が、最後にサカムラのやくざ仲間によって、建設中のビルの生コンクリートに突き落とされて殺される。このビルが新しいアメリカを象徴しているのなら、クライトンは日本人の死体がその礎石となることを望み、映画はアメリカ人の死体が礎石となることを望んだわけだ。

 アメリカ議会、そして政府自体が、主に産業界の使嗾によって、日本との「文化的差異」を貿易赤字是正の武器として駆使しているのだから、個々のアメリカ企業がこれを利用しない手はない。『ゲーム・オーバー──任天堂帝国を築いた男たち』(デーヴィッド・シェフ著。角川書店)を見ても、MCA社長のシドニー・シェーンバーグやワーナー社長のスティーヴン・ロスらハリウッドの大物らが執拗に途方もない形で任天堂に訴訟を仕掛けてくるのは、その典型である。前者は一九八二年、任天堂のヒット作品「ドンキー・コング」に対して「キング・コング」の商標登録無断使用の咎で訴訟を起こして敗訴、後者は一九八九年影に回ってアタリ社を使嗾、任天堂の日米双方の市場支配を典型的な日本企業の排他的ビジネス慣習として訴えさせ、やはり敗訴している。これらが「功利的日本叩き」であることは、アタリ社の社長が日本人であることからも明らかだ。

 ちなみにシェーンバーグもロスも、ユダヤ系である。周知の通り、この民族集団は世界史上最も激しい「叩き」に曝されてきた。アメリカの日本叩きに対して、日本側は終始受け身なくせに、宇野正美を筆頭とするユダヤ叩きが氾濫している。これは直接的なアメリカ叩きを断行するには未熟すぎる日本側が、ユダヤ教徒を身代わりにする現象として興味深いが、いずれ別な機会に掘り下げてみたい。  日米摩擦というパラノイアに限定すれば、『ライジング・サン』でそれを露呈してはばからないのは、直接事件捜査を担当するロス市警のトム・グレアム刑事(ハーヴィ・カイテル)である。しかしこういう日本叩きは単純明快で、シェーンバーグらのような功利的日本叩きとは異なる。だが功利的日本叩きが、こういう単純な日本叩きのムードから威力を引き出してくるのだから、軽視することはできないのだが。

 従ってコナーのような「クロスカルチュラル探偵」が事件のミステリーを解明していく行為は、「文化的差異」がハイテク操作によって増幅された迷路を、日本情報のノウハウという精神的テクノロジーと、決定的証拠を明示する本物のモニターCDの獲得によって踏破する行為であり、そのゆえにこそ「パラノイアとしての日米摩擦」を客観化する作業の寓意となるのである。

〔『ライジング・サン』とは正反対の日米摩擦映画『ガン・ホー』〕

もう一つの典型的日米摩擦映画『ガン・ホー』(1986) では、日米双方の主人公、アッサン(圧惨)・アメリカ工場長のタカハラ・カズヒロ(ゲディ・ワタナベ)と日米ワーカー双方の連絡役ハント・ステーヴンスン(マイクル・キートン)の努力によって日米双方のパラノイアが溶解する。『ガン・ホー』は日米摩擦をテーマにしたものでは感動的な次元にまで達した喜劇で、以後アメリカではさらに連続テレビドラマ化される大ヒット作となったのに、日本ではおそらく日本側を否定的に描いたという理由で封切られなかった(「圧惨」という皮肉な社名からニッサンがクレームをつけたのか?)。最近は『ライジング・サン』が「あいのこ」と「部落民」という差別語を使用している咎で、第六回東京国際映画祭での上映が自粛的に中止された。二つの自粛中止の動機は、酷似している。

 『ガン・ホー』では、タカハラが属する目標生産台数達成に一切を投入するゲゼルシャフトとしての日本の自動車会社と、ハントが子供時代から属するゲマインシャフトとしてのアメリカの田舎町が、対立から相互協力に至る長い過程が描かれる。映画冒頭で喜劇的に紹介される「圧惨自動車」の管理職トレーニング(地獄の特訓)は、ハントが属する田舎町の共同体意識に類するものを徹底的に破壊、会社を共同体と錯覚させる精神操作である。日本ではこれが「近代化」と誤解され続けてきた。

 しかしこれは優れた工業製品を開発してきた重要な秘訣の一つだった。優秀な製品こそ、経済活動のボーダーレス性を高める。逆に製品の優秀性が低下すると、経済活動はボーダーフル性を高める。つまり保護主義に転じるのだ。ペンシルヴェニアの片田舎にあるハントらの町には、アメリカの自動車会社の工場があり、町民はそこで雇われて生計を立ててきたが、日本車との競争に破れた会社が工場を閉鎖、ハントの圧惨自動車誘致の日本珍道中が始まる。この場合、ボーダーフル性を高めるはずの彼がボーダーレスになろうとしたわけで、ここにタカハラとの「ボーダーレス的友情」、つまり「クロスカルチュラル的友情」が生まれる契機が生じたのである。

 この映画の見せ場は、最後に「日米合作」の自動車一万五千台を一夜にして仕上げ、厳しい日本人常務サカモト(山村聡)もついに折れる場面だが、これは単に優秀な製品が自動的にボーダーレス性を高めたのではなく、欠陥だらけの自動車製造を通して本来は最もボーダーフルなものであるはずの日米双方の「文化的差異」が労働者らの中でボーダーレスになった点で、これは現実にはありえないおとぎ話なのだ。だから日本での月産最高記録一万五千台への挑戦を迫られて、アメリカ労働者は極めてボーダーフルな反応を示したのである。むろんこちらのほうが現実である。

 ただし私が一九八九年、米日財団の助成でシカゴ南のダイヤモンドスター自動車(三菱)、ケンタッキーのトヨタ、テネシーのニッサンの工場を見学したかぎりでは、アメリカ人労働者は厳しいスクリーニングの結果採用され、アッセンブリー・ラインでは実に厳しいノルマを整然と果たしていた。『ガン・ホー』のように、ラジカセをかけ放し、葉巻をくわえてという光景はまるで見られなかった。従業員は、白人男性以外にも白人女性、そして黒人男女の姿が目についた。彼らの一人は、「フォードなんかの工場は、それは汚いもんだ」といっていた。

〔同一企業内での「クロスカルチュラル的友情」が描かれない『ライジング・サン』〕

『ガン・ホー』のアメリカ人労働者らは、単にアメリカの自動車会社に依存してきたのを日本の自動車会社に切り換えただけであり、ゲマインシャフト的な町の生活を維持する手段として働いてきたにすぎない。しかしそういう自己本位の姿勢でしか働かなかった結果、自国の自動車会社は工場閉鎖に追い込まれたのである。アメリカの自動車会社は、そのため日本叩きに走らざるをえなくなった。ボーダーフル性を高めたのは、アメリカ労働者よりも会社のほうだったのだ。

 ともかくタカハラは、ハントと共に日米相互のズレに苦しみ抜いた結果、アメリカ労働者側の共同体意識と日本の会社側の生産能率主義の調和点に到達する。共同体意識とは、共同体と自我との関係に対する自然発生的な意識で、ハントとその仲間はその感覚を自分の股間で感じていることが随所で示される(大月隆寛「連帯するキンタマたち──映画『ガン・ホー』に見る日米経済摩擦の語られ方」(       参照)。元来パラノイアは、健全な性欲を減殺する。『ライジング・サン』の冒頭シーンで展開されるコールガールと謎の男の間に展開される性行為は、モニター用CDに録画された極めてパラノイア的な青ざめた性行為にすぎない。『ガン・ホー』のアメリカ人労働者がなにかというと股間を掴むのは、パラノイア忌避の姿勢に通じる。ハントの影響で会社への度外れた忠誠心から次第に脱却してきたタカハラが、泥酔の極ズボンのジッパーをあけ、そこから片手を突き出して「片耳の象だぞう!」とやるのは、彼のパラノイア脱却をも象徴している。この感覚は『ライジング・サン』には、完全に欠落しており、『ガン・ホー』が製作された一九八六年時点に比べて、日米摩擦は一層パラノイア度を高めてきたわけだ。

 当然タカハラとハントの友情のような、同一企業内で成立する日米双方の個人同士の「クロスカルチュラル的友情」は、『ライジング・サン』ではまるで描かれない。ナカモト・アメリカ社長ヨシダ(マコ)、そしてエディ・サカムラの二人とコナーの友情が描かれるが、彼らは所属組織を異にする。ただしマコ演じるヨシダは、サカムラ以上に人間的存在感を漂わせ、コナーとの友情も瓢げたおかしみと味があり、この映画のパラノイア性を救う数少ない要素の一つになっている。

 例えば前記の『ゲーム・オーバー』を読んでも、日本企業のアメリカ浸透には、ハントのような「お雇いアメリカ人」の活躍が不可欠なことが分かる。ニンテンドー・オヴ・アメリカ(NOA)のハワード・リンカーンなどは、同社長・荒川實と一心同体的存在である。むろんゲゼルシャフトでの結びつきだから、所詮は金とチャレンジのスリルがなくなれば縁の切れ目となるにしても、荒川とリンカーンは実に男らしい果敢な友情に支えられて苛酷な企業戦争を闘い抜く。そのリンカーンも、そしてハントも、『ライジング・サン』の世界ではイシハラに顎で使われ、日本叩きで売るモートン上院議員を密かにコールガールによる色仕掛けと贈賄で買収、議員が誤ってコールガールを殺したと錯覚した後彼女を本当に殺害する〔リチャーズ〕のような役回りに貶められてしまう。議員は自殺に追い込まれるから、〔リチャーズ〕は彼をも殺したことになるのである。

〔「アメリカ人自身により凌辱され、殺害されるアメリカ」というパラノイア〕

かつてアジアは「マダム・バタフライ」と「フーマンチュー」の二つの側面で描かれた。前者は欧米に従順なアジア、後者は欧米に敵対するアジアである。早川雪洲も、アメリカ映画では後者の役回りを演じさせられた。しかし一九八〇年代に入って、中国系戯曲家デーヴィッド・ヘンリー・ワンは、超ヒット作『M・バタフライ』で、二十年間フランス人外交官の情婦として暮らした中国人が実は男だったと判明する話を描いた(この作品は、ジョン・ローン主演で映画化が進行している)。セクシズムが国の強弱を象徴する傾向からすれば、「女が実は男だった」というオチは、アジアの屈辱とそれを乗り越えての台頭を象徴していた。このような内容のミュージカルがブロードウエイで大ヒットしたこと自体、アメリカ人観客のアジア観がある程度成熟してきたことを示している。

 だから『ライジング・サン』も、イシハラという個人をフーマンチュー的に描くのではなく、彼を含めた日本的ビジネス慣習総体をフーマンチュー的色合いで描く段階にまでは進歩している。むしろ白人女性との放蕩をくり返すサカムラが、そのトリックスター性ゆえに、最初はフーマンチュー的悪役に描かれるが、イシハラが代表する組織悪が前面に出てくるにつれて、サカムラの人間としての存在感が観客に分かってくる。それだけにこの映画では、アメリカ人が、日本的ビジネス慣習総体が個々の日本人ビジネスマンをすら犠牲にする名状し難い奇怪なシステムなのだと恐れているアメリカ側のパラノイアが、ひしひしと感じられるのである。すでに冒頭の太鼓連打のシーンから、システムとしての「日本の異質性」という「文化的差異」がアメリカ観客の脳裏へ叩き込まれていく。ボーダーフル性を高めれば高めるほど、ボーダーレスに浸透してくる日本は奇怪に見えてくるのだ。『ゲーム・オーバー』では、ある連邦下院議員は、「任天堂のゲーム機は、子供たちの心を通じてアメリカの家庭に忍び込んだのだ」と決めつけた。モートン上院議員を彷彿とさせる台詞ではないか。

 太鼓連打のシーンは、ナカモト・ビルの落成式の余興である。滑稽なことにナカモトのマークは雷太鼓の図柄になっている。また太鼓連打は、一階上の会議室でくり広げられるコールガールと正体不明の男との性行為のリズムと連動、男が日本人で、コールガールに堕したアメリカそのものを凌辱している生々しさを観客に印象づける(この性行為が不自然なパラノイア性を帯びているのは、これが録画だからだけではなく、この悲惨な象徴性のためでもあるのだ)。首を締められないとオルガスムスに達しないコールガールのマゾヒズムは、日本の浸透にあくまで無防備なアメリカ市場のマゾヒズムに呼応している。そしてこの正体不明の男こそ、イシハラのような「組織人間」を生み出し(『ガン・ホー』のタカハラは地獄の特訓で組織人間化されたが、ハントとの「クロスカルチュラル的友情」によって辛くも「クロスカルチュラル人間」に生まれ変わった)、アメリカ人の一部をモートン上院議員や〔リチャーズ〕のような裏切り者に変質させる日本という異質なシステムの権化なのだ、と観客は思わせられる。

 しかし、「もはや日本人を早川雪洲に演じさせたような個人的悪役として認識するのは時代錯誤で、あくまでシステムの悪として見ることが進んだ認識だ」とする姿勢が貫かれているために、この男は背中しか見せない。システムは人格化できないからだ。従ってこの男の背中に象徴されるシステムを人格化することが、ジョン・コナー警部ら「クロスカルチュラル探偵」に課せられた難題であり、このミステリーの究極の目的となる。それは最初エディ・サカムラに人格化されかけるが、最後にはモートン上院議員に人格化されてしまう。つまりアメリカがアメリカを凌辱していたことになるのである。こうなると、太鼓の連打は、アメリカに自らの凌辱を迫る日本の圧力を象徴しているわけだ。しかも議員をナカモトの走狗として骨抜きにすべくコールガールを本当に扼殺したのも、イシハラの命を受けたとはいえ、「お雇いアメリカ人」の〔リチャーズ〕だった。アメリカがアメリカを扼殺したわけだ。それもまた、太鼓の連打の只中で実行された。結局システムは人格化できず、自らを蝕むアメリカ人の姿だけが人格化された。これが日本叩きの映画なら、同時にこれはより深刻なアメリカ叩きの映画でもあることになるのである。

〔「クロスカルチュラル探偵」ジョン・コナー〕

ジョン・コナー警部は、ショーン・コネリーのもじりである。原作者マイクル・クライトンがこの俳優に惚れ込んだのは、東西対立の難題を快刀乱麻を断つごとく鮮やかに解決していったジェームズ・ボンドに対してだった。そして日米対立の難題解決者として、ジョン・コナーが登場したのである。

 ボーンアゲイン・クリスチャンだったロナルド・レーガンは、かつてのソ連を「悪の帝国」と呼んだ。これは奇怪なハルマゲドン説を信じるこの教徒の間では、よく使われた呼称だった。「悪の帝国」がイスラエルに進軍して、ハルマゲドンの火蓋が切られるのである(ハル・リンゼイ『今は亡き大いなる地球』徳間書店拙訳参照)。しかし所詮はソ連も白人が多数派を占め、キリスト教の一分枝が栄えた国だ。ジェームズ・ボンドは、ジョン・コナーのように「クロスカルチュラル探偵」である必要はなかった。しかしあまりに異質な日本が相手となる日米対立の難題解決者は、日本異質論をふりかざす、極めてボーダーフルな「修正主義日本研究者」の側面を必要とした。クライトンは自著の最後にこれらの研究者の著書を参考文献にあげている。

 「クロスカルチュラル探偵」は、一朝一夕には誕生しない。だからコナーはスミス警部補を日本研究の弟子とし、相互に「センパイ」、「コウハイ」と呼び合いながら捜査活動と日本学習を同時に進行させていく。コナーは女性までスミスに下げわたす。

 テレサ・アサクマ(ティア・キャレア)は、黒人兵士を父に持つ日米混血児である。混血児は元来最もボーダーレスかつクロスカルチュラルな存在だから、彼女がボーダーレスの極致であるコンピューター・グラフィクスの専門家であることは符節が合う。しかし混血児はその強烈なボーダーレス性、クロスカルチュラル性のゆえに、最も激しいボーダーフル的差別の犠牲になる(『ライジング・サン』の東京映画祭参加中止は、彼女が自らを「あいのこ」と呼び、「部落民」にわが身を準える箇所のせいだった)。テレサはそのために日本を憎む。その彼女がコナーの愛人だったことに最後の場面で気づいたスミスの耳に、「コウハイ・・・」とてれくさそうに呼びかけるコナーの幻聴が聞こえてくるのは、「より深刻なアメリカ叩きの映画」の最後としては奇妙に爽やかな余韻を残す。ここで観客は一様にくすりと笑ったが、彼らも同じ感想を抱いたにちがいない。白人のセンパイが黒人のコウハイに、手塩にかけた日米混血女性を譲る行為は、最も唾棄すべき人種差別とセクシズムであると同時に、最高のクロスカルチュラル行動でもあるのだ。テレサは「私のボーイフレンドは、『鳥籠の出口はいつも開いているよ』っていうような男なのよ」とスミスに告げるが、こういう強靱さを演出できること自体、コナーの側に「(クロスカルチュラルに)手塩にかける」という、最も精密さを必要とする教育的姿勢があればこそなのである。

 テレサ・アサクマは、ボーダーレスな本質を反映してコンピューター・グラフィクスに習熟している。その彼女がイシハラの贋造CDにひっかかり、うまうまとエディ・サカムラの映像を復元させられることは、彼女がまたしても憎いもう一つの祖国・日本に裏切られたことを意味している。彼女は消去されたサカムラの映像の跡をコンピューター・グラフィクスの専門語で「ゴースト」と呼ぶが、見事に復元したサカムラ自体が犯人としてはイシハラの仕組んだゴーストにすぎなかったわけだ。

〔コナーはどの日本と戦っているのか?〕

コナーは、相当日本文化に習熟しているけれども、殺人事件捜査の過程で浮かびあがる日本のアメリカ浸透に対しては「われわれは日本と戦争している」という日本異質論者の姿勢を露にする。このぶれは、私の友人ロバート・ジョーンズにも見られ、この夏フロリダ西海岸の小都市ステュアートで会った彼の義兄から、「ボブは事ある毎に日本ではこうだ、ああだといって、アメリカを批判する。ここに住みたくないようだ」といわれるような側面を持つくせに、私が混じると義兄や姉の前で日本のさまざまな欠点を列挙しだすのである。彼はヒッピーの走りとして一九六〇年代のヘイト=アシュベリーで暮らし、クリート族インディアンの活動家女性と結婚していたこともある典型的な超リベラル白人(ウェールズ系)だが、クロスカルチュラル人間が共通に持つ「中間者としてのフラストレーション」からは自由ではありえないのだ。

 しかしコナーは、見事に「中間者としてのフラストレーション」を統御している。彼はリトル・トーキョーの南にある魚市場の倉庫に作られた、いささか悪趣味なほど日本的な部屋でテレサと暮らしているが、アルマーニを着て、日本でもアメリカでもない中間的心理空間に漂い、双方の境界を自在に出たり入ったりして生きており、その点では極めてボーダーレスである。彼が日米混血のテレサと同棲しているのも、混血児としての彼女の中間性が自分の生き方と合致するためだろう。コウハイであるスミスなどは、中流化したアフリカ系アメリカ人の生活にまだどっぷりと浸って暮らしているが、コナーの薫陶を受けたテレサとの新生活次第では、クロスカルチュラル探偵としての自在な中間性を身につけていけるかもしれない。

 ところがコナーは、「われわれは普通のアメリカで暮らし、アメリカの街路を歩いている。このわれわれの世界と並んで第二の世界がある。そのことにわれわれはまるで気がつかない」とスミスに説明する。その「影の世界」こそ、日本人が潜む世界なのだ。テレサが使った専門語「ゴースト」が、ここにも響いてくる。そして影の世界の奥の院で、日本人重役たちが白人アメリカ女性を思うさま凌辱している。ナカモト・アメリカの会議室には、重役が彼女らと寝る隠し部屋まで用意され、市内の「別宅」には囲い者の白人女性らが怠惰な日々を送っている。エディ・サカムラなどは、裸の美女を握り寿司の俎代わりに使い、別な美女の乳首にしませた酒をすする。

 これはアメリカ人識者からも「日本叩き」の非難を浴びた典型的な箇所で、あるアメリカ人書評家は『ライジング・サン』を、ユダヤ人差別で名高い一九四〇年製作のドイツ映画『甘言を弄するユダヤ人(ジュー・シュース)(ルビ)』などと同一視している。この映画では、十八世紀のヴュルテンベルヒ侯国に寄生、同侯を操って侯国の財政を掌握、ドイツ民衆の膏血をすすり、警察署長の娘を凌辱して自殺に至らしめるユダヤ人オッペンハイマーの悪辣ぶりが描かれる。おまけに娘の婚約者のドイツ青年は、性的不能者なのだ。

 ただ経済支配と性的支配がドッキングするのは、『マダム・バタフライ』を見るまでもなくどの国にも見られたし、アメリカ男性による日本女性狩りはサカムラの比ではない印象がある。問題はコナーが「影の世界」と規定する、日本人がアメリカに作った「リトル・ジャパン」と、彼が愛着を持って参入していった日本とは別物なのか?という点だ。「リトル・ジャパン」の日本人は、アメリカ参入の緊張で本国の日本人よりよけい異質に見えるのか? それとも東洋崇拝のヨーロッパ人によくある、東洋文化は崇拝するくせに、東洋人は「二級民族」扱いしたり、警戒したりする傾向を、コナーもまた持っているのか? 日本そのものまで「影の世界」であれば、コナーの中間性自体その実態を失い、自ら「ゴースト」に堕してしまうことになる。私にとってアメリカが「影の世界」ならば、アメリカを梃として日本の座標軸の周辺に位置し続ける私の中間性まで「ゴースト」に堕してしまうのと同じではないのか。この点が、『ライジング・サン』で最も不明な要素であり、それゆえに小説も映画もついに日米摩擦のパラノイアを突き抜けることができないのである。
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