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映画14_1.アルトマンの『反ウェスタン』と反覇権主義

 ロバート・アルトマンの1970年代の作品には、ウェスタンものにもヴェトナムが大きな影を落としている。『ギャンブラー』は、一見違うようだが、徴兵忌避のアメリカ青年が多数逃げ込んでいたヴァンクーヴァで撮影され、アルトマンは忌避者をエキストラに雇って力づけた。『ビッグ・アメリカン』のシティング・ブルにはその小柄で飄々たる姿にヴェトコン、ひいてはホーチーミンの映像が重ねられた。むろん、彼の仲間を殺害した騎兵隊とヴェトナム派遣の米軍がダブらされ、今日の目で見れば、サダム・フセイン政権を倒したイラク侵攻の米軍すら重なっている。アルトマンのブッシュ忌避は断固たる信念だからだ。アメリカが世界の覇権国家であり続ける以上、アルトマンの映画は常に新しいだろう。

 さて、1960年代の公民権運動やカウンターカルチャーに触発されて、西部開拓がインディアン征服として批判され始め、その結果『ソルジャー・ブルー』や『リトル・ビッグマン』などの「反ウェスタン」映画が登場してきた。『ギャンブラー』がアルトマンの最高傑作と言われるのは、同じ「反ウェスタン」の中でも、内容が非常に深いためだ。

 この映画の原題の訳は『マッケイブ&ミラー夫人組』で、主人公とヒロインが共同経営する娼婦宿の「社名」である。時代は西部開拓真っ最中の1830年代、舞台も西のさいはてワシントン州の開拓町(その名も「長老派教会町」)。このプロテスタント宗派はスコットランド系で、近くを支配する亜鉛鉱山会社もスコットランド系が牛耳り、マッケイブが博打の上がりで買った地所を買いたたき、彼が断ると殺し屋を差し向けてくる。大資本による小資本の収奪である。邪魔者を排除して突き進むアメリカ人の西進衝動はプロテスタントが主導、個人レベルでも例えばワイアット・アープのような西部の英雄は安く買った開拓地が値上がりすると売却、また西へと進む一所不住の投機性が特徴だった。

 それに比べて、カトリックは家族的紐帯と定住志向が強かった。マッケイブはケルト系の名だが、同じケルトでもスコットランドはプロテスタント、アイルランドはカトリックに分かれる。主人公の宗派は不明だが、アルトマンはドイツ系カトリックで、ジョン・フォード(英アイルランド混血)と同じく出演俳優たちで結束、「組」を作るこの宗派の特徴を共有、さらにはマッケイブがこの町に定住を決意している点も、アイルランド・カトリック的ではある(彼は「おれの中には詩人がいるんだ」と呟く)。

 建ちかけの長老派教会は主人公と亜鉛鉱山の刺客との決闘で炎上、町民は彼らをほったらしかて消火活動に挺身する。西部の町には、まず酒場が建てられ、遊興の他に裁判その他の集会に使われ、かなり遅れて教会が建てられて秩序が回復される順序だった。この映画のように、牧師も武装していた。

 マッケイブは亜鉛鉱山はもとより、町民にも見放され、定住の核となる女性、ロンドンっ子のミラー夫人は強欲さゆえに人格が破綻、仕事の合間には中国移民の生命力を示してこの町にもあるチャイナタウンで阿片に酔いしれ、彼と所帯を持つ気はまるでない。結局、マッケイブは定住の夢を打ち砕かれ、殺されることによって逆説的に開拓町の礎石となるのである。これからはこの町でも酒場からいずれ再建される教会に主軸が移るだろう。アルトマンは、主人公がこういうキリスト的な生贄となることで共同体が生き延びる光景をよく描く。従って、この映画は「反ウェスタン」の中でも、一際内容が深いのである。

 アルトマンは、キリスト的生贄の他に、英雄の正体暴露を得意とする。『ビッグ・アメリカン』はそのジャンルに入る。この作品が建国200年を期して作られたので、取りも直さずバファロー・ビルの正体暴露にはヴェトナム戦争に狂奔してきた当時のアメリカ合衆国の暴露も意図されていた(封切りは1976年7月4日、合衆国建国記念日)。ちなみに、この映画もカナダ(アルバータ州のインディアン居留地)で撮影された。

 バファロー・ビルが文化英雄とされてきたのは、当時、世界に誇れる唯一の粗野なアメリカ文化、フロンティア・スピリッツという「大西部」の辺境エートス(気風)をショー化、東海岸はもとよりヨーロッパで巡演、ヴィクトリア女王を始め王侯貴族らの謁見に浴した結果だった。ヨーロッパ、特に植民地獲得競争に出遅れたドイツは、「大西部」に夢中になり、カール・マイというドイツ人作家のドイツ製西部小説はヒトラーまで愛読、未だに読みつがれている。私は西部の観光拠点を回る度に、バスを連ねて押し寄せるドイツ人観光客に出くわした。大西部が欧米人を興奮させたのは、「征服」行為だったのだ。

 映画の時代は1885年、このフロンティア・スピリッツのショー化には、ネッド・バントラインという三文作家が関与、馬術も射撃もからきしだめなビルをトリックで双方の名手に仕立てあげ、たなびく金髪の鬘までかぶせ、17カ月に4280頭の野牛を殺したという「ホラ話」をでっちあげ、ビルを「巨人化」していく(映画でも等身大の何倍も巨大なバファロー・ビルの絵が口をきく場面がある)。白人には巨大な「無歴史」の空洞にすぎないアメリカ大西部には、無尽蔵に「ホラ話」を詰め込み、文化英雄を巨人化できる。アメリカ人が何かと「世界一」にこだわるのはそのせいだと言われている。

 ただし、辺境エートスのショー化の邪魔になったのが、カスター将軍と彼麾下の第七騎兵隊がシティング・ブルらスー族によって全滅(1876)した事態だった。バファロー・ビルは騎兵隊が捕らえたブルをショーに担ぎだし、カスターがブルに勝った場面をでっちあげようとする。ブルは逆に騎兵隊による同胞の婦女子殺害のショー化を提案して、当然拒否された。もっとも下心があるビルは、ブルから巧みに同胞への毛布その他の品々をねだり取られ、ショーではブルに、カスター部隊を倒した念力を披露されてしまったりする。ブルは後にショーを見に来たクリーヴランド大統領にも念力を使い、騎兵隊の残虐行為を訴え、同胞の救済を求めるが、相手は何の感銘も受けない。ビルの許を去ったブルは、スタンディング・ロックで殺される。

 ブルの死に次いで、ビルは邪魔になった自分の「造物主」、バントラインと決別、いよいよ架空の人生へと飛翔、ブルの屈強な通訳(インディアン)をブルに仕立て、自ら相手を倒し、喝采する観客に向かってはぎ取った羽飾りを高々と掲げて応えるショーを演じ出す。ショーは続けなければならないのだ。

 「バファロー・ビルか・・・人生でいちばんゾクゾクしたのは、お前をでっちあげたときだったぜ」──これはバントラインの捨てぜりふだが、ビルにとって相手が邪魔になったのは「巨人化」が複数の人間たちによる合作作業に拡大してきたからだ。

 一層の「巨人化」を遂げたビルが鏡に見入る姿は象徴的だ。そこには実体はない。バントラインがでっちあげたときは、等身大のビルがまだ残っていた。今や等身大よりはるかに巨大な「外側」しか存在しないのだ。観客は中身空っぽのバファロー・ビルの外形だけを賛仰するわけだが、アルトマンの意図ではニクスン、後に登場してくるレーガン、ひいてはブッシュ父子らに賛仰するアメリカ国民の姿がダブらされている。特にレーガンとテキサス育ちのブッシュ息子は、カウボーイの扮装を売りにしてきた。彼らは、日々、アメリカというショーを演じ続けてきたのだ。世界はいいかげんこのショーにうんざりしているのだが、アメリカはショーを中断するわけにはいかないのである。

 『ビッグ・アメリカン』の強烈な自国批判は、しかし、アルトマンにとって高くついた。映画は不首尾で、莫大な借財を背負った。この映画は、映画界からウェスタンも反ウェスタンも、ともに消え去る契機ともなった。アメリカ白人は、外形だけの英雄を賛仰できなければ白けてしまうのである。
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