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映画14_4.『クッキーズ・フォーチュン』

何がX世代を蘇生させたのか?

 この映画の舞台バファローはナイアガラへの途中で立ち寄ったきりだが、主人公が育ち、今も両親が住む郊外は、どうやら<内輪郊外>のようだ。この郊外は一九五○年代、全米に広がったもので、核家族という、高度管理社会の枢要部分を収容した。

 この郊外は、黒人の都心流入からの<白人逃亡>先でもあった。八○年代、内輪郊外の老朽化及び黒人新中流層の流入によって、白人家族が、都心から一層離れた<外輪郊外>へと、第二の<白人逃亡>を開始した。

 売れないナイトクラブ歌手だった、すぐ切れる父親、一九六六年に優勝したきりで低迷が続く地元フットボールチームに夢中で、主人公ビリーの出産ゆえに唯一の優勝の瞬間を見逃したと公言する母親──どう見ても中流の下か下層の上の家庭である。もはや外輪郊外に引っ越せる資力はない。

 ちなみにビリーの両親の家は、監督・主演のヴィンセント・ギャロ自身が育った家だし、映画の両親には彼の両親が投影されている。

 一九六六年生まれといえば、ビリーはX世代の最初だ。六五年生まれまでがベビーブーム世代の最後だった。カウンターカルチャーを初め大抵のことはベビーブーム世代がやってしまった後なので、X世代は、「奴らはどこにでも居合わせて(HAD BEEN)何でもやった(HAD DONE)と自慢する手合いさ」と悔しがり、HBHD症候群と嘲った。

 X世代は最初ビリーのように内発力のない者が多かったが、近年、起業家が増え、積極性が出てきた。だから最後にビリーが突如生きる意欲をめざめさせるのは、象徴的だ。

 内発力のなさは、横に人がいると「見られている」というノイローゼで小便も出ないとか、レイラが浴室に入ってくるのも拒否するし、ベッドインしても不自然な硬直した姿勢に終始し、レイラを抱けず、逆に胎児の姿勢をとって彼女に抱いてもらう点などに露呈している。まるで六六年のバファローズ優勝で一切のツキを吸い取られてしまったかのようだ。だからこそこのチームに一万ドルを賭け、スター選手のミスで負け、賭金不払いの埋め合わせに胴元の仲間の身代わりで五年間の服役を余儀なくされ、出所してこの選手の暗殺を最後の生き甲斐にするしかない。

 両親に結婚していると嘘をついた手前、見ず知らずのレイラをむりやり誘拐、両親の前で夫婦を演じさせる。レイラは童顔だが、肉体は雌牛のように豊満で、がりがりに痩せたビリーはこういう女性に救われるしかない。レイラこそX世代に内発力をめざめさせ、先行世代のHBHD症候群を乗り越え、起業家精神を発揮させる活力剤なのだ。

 レイラに高校時代の片思いの女性の氏名を名乗らせ、まるで映画監督のように細々と妻としての演技指導をするビリーには、大変なエネルギーが漲り、ただそれがマイナス方向に向いているだけである。レイラこそ、それをプラス化できる存在の象徴なのだ。

 従ってビリーには外輪郊外育ちの、場所意識を喪失した、非人称的な攻撃性は見られない。例えば級友や教師を射殺して回った、コロラドの二人の高校生のような。彼らの育ったリトルトンの町は、完全な外輪郊外で、六○年代には地上に存在していなかった。

 ビリーが場所意識を喪失していないことは、あれだけ不仲な両親の家に、贋の花嫁を伴い、さらには贋の夫婦写真を送ろうとする執拗さにもよく表れている。五○年代にできて、老朽化した内輪郊外にはまだしも場所意識は残っているわけだ。

 場所意識が漂白されれば、両親に自分を証明しようとあがいたりしない。一連の射殺魔高校生には、両親を殺した者もいた。彼らは悩の変速装置である<帯回>という部分が異様に活性化し、特定の思考に固着する。また衝動を抑制する<前頭葉前部皮質>が鈍化、制動装置抜きで殺人に走る。これらの機能の衰弱は、場所の意識、両親や友人との関係の意識が漂白されて増幅される。

 童顔で豊満なレイラは、ビリーの場所意識だけでなく、<帯回>や<前頭葉前部皮質>の機能まで安定させ、彼が元選手を殺す寸前 で回れ右させた。

 しかし女権運動から見れば、屑のような男を救うだけで、何の自己主張もないレイラは、自覚した女性の敵である。その点、この映画をロングランさせている観客(男女に関わらず)の動機がどうも気になる。
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