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映画15_2.事件に迫ったカポーティに迫る映画『カポーティ』

 面白いのは犯罪者ではなく、犯罪者に魅きつけられる書き手や読者や視聴者のほうだ。なぜ自分は無縁な犯罪に、人は魅きつけられるのか? これがこの映画の主題である。

 もう一つの主題は、書き手や映画監督や俳優は、犯罪を面白く見せかけるには手段を選ばないことである。この映画の直接の主題はむしろこちらのほうで、当然、主人公は犯罪者ではなく彼らに食い下がって取材した作者カポーティ自身になる。

 カポーティの時代、文学は危機を迎えていた。虚構よりノンフィクションが主流になりつつあったのだ。明らかに世界が「事実は小説よりも奇なり」の局面に入っていきつつあった。彼はニューヨーク社交界の寵児として食いつないではいたが、次なる生き延び策に焦っていた。『冷血』(一九六六)は、そのあがきから生まれた傑作である。彼はこの作品を「ノンフィクション小説」と呼んだ。これまた、小説自体のあがきを感じさせるではないか。しかし、『冷血』には惨殺事件は描かれても、カポーティの正体は描かれない。この映画は、自分の作家的延命に血道を上げる彼の姿にこそ焦点を絞ったものである。

 キャンザスの大平原で起きた農場主一家惨殺事件の取材を『ニューヨーカー』に売り込んだカポーティは、あらゆる策を弄して現地捜査当局、被害者の遺体目撃、収監された犯人への取り入りを断行、事件を再生するネタを吸い上げる。犯人への取り入りには、有力な弁護士の紹介などで死刑回避を臭わせては肝心な殺しの状況を聞き出しながら、結局は犯人を見殺しにし、あまつさえ処刑が決まるとカポーティは、これで物語の結末ができたと狂気乱舞するのである。

 彼にここまでやらせたのは、煎じ詰めれば、読者は他人の犯罪に異常な興味を示すという確信である。これらの読者の大半は、生涯殺人はおろか、他人の恋人を盗むことすらせずに一生を終わる。あまりに退屈な人生なのだ。だから他人が繰り広げるプロスポーツや殺人やスキャンダルに血道をあげて、しばし退屈を忘れる。しかし、自分自身がスポーツ・殺人・スキャンダル、どれ一つとして主役はおろか脇役すら演じることはない。彼が生涯で主役になるのは、誕生、結婚式、そして葬式、この三回きりである。そう、世界中の人々の大半が、「事件」と無縁で、それに飢えているのである。退屈で死にそうなのだ。退屈がすぎてついに殺人かスキャンダルを起こして、一巻の終わりになる者、これらがまさに犯罪者なのである。もうお分かりだろう、犯罪者とは、「私たちがなり損ねたもう一人の私たち」なのである。私たちは退屈の側に残ったが、犯罪者は敢然と退屈さの彼方へと突き抜けた。羨ましい。しかし、退屈は安心だ。犯罪者は、この映画の犯人のように、ひたすら死刑を恐れて退屈どころではない。

 故郷・南部に退屈したカポーティは、ニューヨークに出て『ティファニーで朝食を』(一九五八)を書いて大ヒット、上流社交界の寵児になれた。寵児といっても、チンチクリンの彼は、わざと足首までくるオーヴァコート、バーグドーフのスカーフなどでコミカル・アイドルを自己演出、甲高い声で上流夫人のご機嫌を取り結んでは退屈を忘れた。しかし、それにも退屈してきたし、最も恐ろしいことには、自分を退屈から救ってくれた小説が危機に瀕し始めたのである。

 カポーティが同じ南部生まれの幼なじみの女性作家ネル・ハーパー・リーを相棒に雇うのは、直接的には犯罪者の眼前でメモがとれず、モーテルに戻って取材内容を相互に思い出し、齟齬を調整するためだ。しかし、ホモのカポーティには、リーに対する欲情よりも、彼女に対する作家としての優越感によって自分の作家的自信を保持する目的がある。キャンザスへの途中、カポーティは車掌にチップをやって自分の作品を褒めそやさせ、リーを圧倒しようとする。しかし、リーにはお見通しなのだ。案の定、リーはこの直後、生涯の傑作、アラバマの人種差別を扱った『マネシツグミを殺すには』(一九六○)を発表、大変な人気を得て、カポーティは苦虫噛み潰すのである。リーは成功のためならなりふり構わぬカポーティが、犯人を弄んだくせに死刑後、「何もしてやれなかった!」と嘆いてみせるのに対して、「何もしてやりたくなかったくせに」と切り返す。リーは良心の声を代表しているわけだが、だからこそこの映画の主役にはなれないのだ。彼女が退屈だからとまでは言うまい。彼女の作品は傑作なのだ から。
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