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映画16_1.分裂したヒーローとアメリカという国家『バットマン・ビギンズ』

●バットマンの悪人たちとヒトラーの類似●

 ボブ・ケインとビル・フィンガーによるバットマンのマンガが始まったのは1939年5月、ウォール・ストリート崩壊(1929)による大恐慌を経た世界が民主主義(米英仏蘭)、ファシズム(独日伊)、社会主義(ソ)の鼎立に引き裂かれた時代だった。

 3つのイズム(主義)の鼎立という分裂状況は、個々の人間の性格も分裂させた。このマンガの膨大な悪役は、ジョーカー(元はグリソム親分の若頭ジャック・ネイピア、化学薬品による変身)、トゥー・フェイス(元は正義の地方検事)、リドラー(コンピューターの天才エドワード・ニグマと犯罪の天才リドラーの合体)、【追加・『バットマン・ビギンズ』のジョナサン・クレイン(ゴッサム州立大心理学教授、恐怖ガスを駆使するスケアクロウ)】その他ほとんど全てが二重人格者である。正義の側に立つバットマン自身、上流WASPのプレイボーイ(ブルース・ウエイン)とバットマンに分裂している。それどころか、斧を奮って人を殺すマンバットという紛らわしい呼び名を持つ怪物(長寿血清で変身した動物学者カーク・ラングストロム)まで登場、おかげで濡れ衣を着せられたバットマンはしばし逃亡を余儀なくされる。

 従って、彼らが入り乱れるゴッサムは、分裂した1939年の世界の縮図でもあった。

 ゴッサムは、イギリス民話の「阿呆村」を指すが、『リップ・ヴァン・ウィンクル』で有名な19世紀前半のアメリカ作家ワシントン・アーヴィングがニューヨークをこう呼んだ。この大都市は阿呆村に見えたし、後には『ギャング・オブ・ニューヨーク』に描かれたようなやくざ集団の百家争鳴とタマニー・ホール(民主党の政治組織)などの市政の腐敗堕落が起きる。

 常識的な人間の場合も「表」と「裏」の分裂は見られるものだが、「表=外観」、「裏=外部には見えない心」という静的な分裂ではなく、表と裏が相互に浸透し合いながら危うい均衡を保っているから、二重人格と指弾されるほどの分裂は見られない。例えば、この私は一部の人の目にはうろんげにに見えても、私以外ではありえないのである。

 しかし、バットマンの悪役たちは、例えば「本物のニグマを本当に表現するにはリドラーでなければならない」ほど、「本物のニグマ」自体が細胞分裂した第二人格「リドラー」に乗っ取られてしまっているのだ。バットマン自身、ブルース・ウエインという本物の自我が「プレイボーイのブルース・ウエイン」という「世を欺く仮の姿」で、新たに創出されたバットマンこそ実体という逆転が起きている。創り出された自我に本来の自我が乗っ取られた状態──これが精神分裂の基本である。

 しかし、精神分裂は一つの目的に振り向けられると、「創り出された自我」が「精神の核分裂」として異様な力の増殖を引き起しもする。悪人たちが一斉に人格を分裂させたのは、その増殖された力を手に入れるためだった。いや、ヒトラーこそ、実体の逆転が起きた分裂型人間となることで途方もない精神的核エネルギーを引き出した現実の見本だった。バットマンの悪人たちは、そのヒトラーの投影だったと言える。さらには、媚薬入りのリップスティックを駆使するポイズン・アイヴィ(本名ハーリーン・クィンゼル、犯罪精神分析学者)、フリーズ博士(極低温科学者ヴィクター・フリーズ)、人間の脳の中身(情報)を吸い取るTVを発明したリドラー(ニグマ)、恐怖ガスを振るうスケアクロウ(ジョナサン・クレイン)などの悪人には、ヒトラー麾下で恐るべきナチス犯罪科学部門を担当したヨーセフ・メンゲレその他の投影が見られる。

●スーパーマンとバットマンの根本的違いは?●

 スーパーマンが別の惑星の人間だったのに対して、バットマンはあくまで普通の地球人である。スーパーマンはそれが実体で、クラーク・ケントは純粋に「世を忍ぶ仮の姿」だから、何ら自我の逆転はない。

 1950年代、UFOの目撃例が西欧側に激増したのに対して、ソ連や中国では目撃例がほとんど報告されていないという。合衆国空軍などは、一時期、本気でUFOの追跡に血道を上げた(1948〜1969まで続いたプロジェクト・ブルー・ブック)。中ソの場合、明らかに報道管制によるものだろうが、UFOへの期待には米ソ対立への西欧や世界の他地域の人々の絶望感が裏打ちされていた。両雄激突すれば、世界の終わりである。人々は米ソをはるかに凌駕する科学力を持った宇宙人の到来を米ソへの抑止力として待ち望んだ。集合的無意識の研究者カール・ユンクは、その待望心理を踏まえてUFOを「テクノロジカル天使」と呼んだのである。

 スーパーマンはこの系列の願望から生まれてきたわけで、世界の悪には手の打ちようがないから宇宙人によって幻想的に、つまり他力本願的に解決してもらおうとしたのである。一方、あくまで地球人のバットマンが自らの人格を分裂させてまで、同じく分裂によって悪の威力を倍増させた悪人たちに立ち向かう構図は、自力本願的かつ現実的な問題解決法だったのである。

 ブルース・ウエインは少年時代、レイチェル・ドーズと両親の邸宅の庭で遊んでいて古井戸に転落、そこに住み着いていたコウモリの群れに怯えたことが記憶に焼きついていた。その後、両親に連れていかれたオペラ座で高音を聞くと、コウモリの鳴き声とダブって耐えられず、両親を急かして途中で劇場を出て、大不況で強盗になった男に眼前で両親を射殺されてしまう。  従って後年ブルースがあれほどを恐れたコウモリに同一化、バットマンに変身したことは、自分に脅威を与えたものの威力をわがものとするためだった。この心理的プロセスは矛盾してはいるが、極めて人間的かつ自力本願的と言える。

 「自力」の倍増は、性格の分裂という犠牲を伴ったが、同時にバットマン・スーツやバットモービルのような物的補強によってもなされる。スーパーマンは元来空中を飛べるのだが、バットマンはあれこれと物的補強が要る。

 分かり易い対比は『狼たちのバラッド』のような、跋扈して止まない犯罪に対する自警団的対応である。チャールズ・ブロンソン扮する主人公よりおためごかしなのは、バットマンが自らは悪人を殺さないことだが、自警団は自らも悪の次元に下りていく点では変わらない。ブルースは自ら「夜」(「暗黒の騎士」)となって、ゴッサムの地下世界へ下降するのである。そして自分が極限まで怯えたコウモリの姿をとることによって、悪人たちに極限の恐怖をたたき込もうとする。

●バットマンとブッシュ父子との呼応●

 しかし1939年の初登場が3つの主義の鼎立と無縁でなかったように、今回のバットマンの登場もまた、世界情勢との遠い呼応は避けられない。ノーラン監督はバットモービルを軍用車のイメージにしたことによって、「9/11」以後、世界最大の武力(第二位から第十五位までの諸国の武力を総合したものすら凌駕)を擁してパックス・アメリカーナの自警団活動(アフガニスタン戦争、イラク侵攻)の先陣を切ったアメリカ合衆国をダブらせた。自力本願の支えは武力しかないのだ。

 今や成長して地方検事となったレイチェル・ドーズは、「善人が黙っていたら街は破滅よ」とブルースを励ます。何だか逡巡するブッシュ父を励まして湾岸戦争に踏み切らせたサッチャー首相を思わせるではないか。そこでその気になって「ゴッサムは救いようがないわけではない」とバットモービルに乗り込むバットマンは、「9/11」以後「テロ戦争」に乗り出すブッシュ息子とダブらずにはいない。「世界は救いようがないわけではない」というわけだ。

 さらに読者は気づかれたと思うが、ブルース・ウエインの人に笑いかける表情や仕種がブッシュ息子にそっくりなのだ。もはや、イギリス人監督の意図は明らかである。これは「9/11」以降の世界情勢にアップデイトしたバットマン映画なのだ。ウエイン家の忠実な執事、アルフレッド・ペニワスは完璧なイギリス人で、顔も年齢も違うが、ブッシュの唯一の味方トニー・ブレア首相が投影されている。そして、ウエイン財閥で冷や飯を食わされていたフォックス博士は、無数の新兵器開発を手掛け、ブルース・ウエインにバットマン・スーツやモービルその他、スーパーマンの「生得の超能力」ではない、バットマンの「人工的超能力」を付与する軍産複合体の技術部門を象徴している。

 邸宅の地下洞窟に住み着いていたコウモリの大群こそ、大英帝国に反逆して独立したときのアメリカ人の恐怖の遺産だったのだろう。当時の世界帝国、大英帝国に立ち向かったときの恐怖は、アメリカ人のDNA深く刻み込まれた。ちょうどコウモリへの恐怖のように。ブルースがその恐怖と同一化したように、合衆国は独立戦争時点の恐怖に同一化、今日、逆に世界に恐怖を発動できる世界帝国の立場に入れ代わった。

 ウエインという姓はオウエインというケルトの古い姓の変形だから、バットマンの民族的出自はWASPでないかもしれない。ジョン・ウエインはアイルランド系カトリックだ。ただブルース・ウエイン家の執事ペニワスはイギリス情報局員だったから、ウエイン家にもWASP的な雰囲気がある。

 ともかく、バットマンが上流の御曹司で、しかも彼の眼前で両親が殺されたことにも、現実とのエコーがないわけではない。WASPや準WASP(ケルトのプロテスタント。例えばニクスンやレーガン)はアメリカの政治・経済・文化あらゆるインフラストラクチャーを構築した。しかし、今日、彼らの人口はドイツ系、ヒスパニック、アイルランド系カトリックに次ぐ四位に落ちてきている。ここが98%強も「日本人」であるわが国との決定的な違いである。ブルースの両親の殺害はジョー・チルという民族性不明の男によってなされたが、この非WASPの人物によるWASPの殺害は象徴的だと言える。つまり、WASPが後発移民に主流の位置を乗っ取られたのだ。しかもブルースがチルに報復する前に、イタリア系のファルコーネが子分を使ってチルを殺してしまうことも、アメリカに導入したインフラの運用をWASPが非WASPに任せる寛容さと響き合う。

 バットマンへの変身を決意する前のブルースが世界中をへめぐり、犯罪者の手の内が読めるようになっていく過程は、合衆国が世界の自警団(普通、「世界の警察官」と呼ぶ)として各地で戦闘や代理戦闘を繰り広げてきた過程と照応する。中国の辺境に巣くう陰謀団、「影の同盟」とその首領、ラーシュ・アル・グールは、来るべき世界帝国、中国の投影である。

 追加・ところが、実際の首領は白人のヘンリー・デュカードで、明らかにキリスト教の「終末思想」の執行者である。つまり、腐敗の極相に達した文明を破壊する「再臨のキリスト」の先兵の機能なのだ。バットマンがそんな相手と最後の死闘を演じることは、極めて混乱した印象を与えずにはいない。しかも、ブッシュ政権は終末思想を過剰に唱導する「キリスト教右翼」に支えられているのだから、混乱はさらに深まらざるをえない。

 デュカードはウエイン財閥の科学兵器部から盗んだ「ガス発生装置」でゴッサムを壊滅させようとするが、これは究極の腐敗相に達した文明をその「利器」を逆用して壊滅させる皮肉である。この皮肉は、「バットマンの『武力』がエスカレートすればするほど、悪人側のそれもエスカレートする」と言うゴードン巡査部長の不吉な予兆によってずしりと重みを持つ。彼はトランプのジョーカーを提示するが、これこそバットマン最大の敵「ジョーカー」の捲土重来を予告しているのだ。サダム・フセインの次の「悪党」は誰なのか? かくして「テロとの戦い」は終わることがないのである。
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