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映画16_2.『V・フォー・ヴェンデッタ』ガイ・フォークスの仮面は近未来の何を象徴しているのか?

●400年前の事件と現下の世界情勢の照応●

   この映画は近未来もので、第三次大戦が起きてしまった2020年の英国に設定され、独裁者サトラーが民衆はおろか政権幹部に対してすらテレビ画面でしか相対さない。

 周知のように、1980年代に書かれたこの映画の原作は、サトラー政権を英国の「保守革命」を担ったマーガレット・サッチャー政権に擬していた。サッチャー政権の独裁への憤懣をてこにしていたのである。

 『マトリックス』を作ったウォシャウスキー兄弟は、当時すでにこの原作の映画化権を入手していたから、自国でのレーガン政権などによる「保守革命」への憤懣を仮託しようとしたのだろう。しかし、諸般の事情で「9/11」以降の制作となった。

 この時間的ずれは、しかし、WTO会議を襲った「シアトル騒乱」(1999)に片鱗を見せた膨大な反グローバリズム集団の登場、ついにはオーストラリア始発で世界的展開を遂げつつある「社会主義平等党(SEP)」など、従来の社会主義政党を否定する新左翼政党の登場によって、かえって時宜に叶ったものとなった観がある。

 時局との照応は、枚挙にいとまがない。逮捕された者たちにかぶせる黒いフードはアブグレイブのイラク捕虜、彼らが連行される収容所はキューバ、ガンタナモ湾のイラク兵の究極収容所、英国一国主義をわめく「ロンドンの声」はキリスト教右翼のテレビ説教師(パット・ロバートスンやフォックスTVの人気キャスター、ビル・オライリー、夜間、各家庭の反政府的言動をキャッチしようと巡回する盗聴車はUSA愛国者法、批評家の中には、サトラーをブッシュ、秘密警察長官クリーディをチェーニーに擬す者までいる。

 過去との照応は前述のサッチャー政権の他にはナチスとのそれが一番多く、人体実験場や強制収容所(特に死体遺棄の光景)、サトラーの職階名が英国でなくドイツのトップを表すチャンセラー(これは英国だと蔵相を指す)になっている。

 この映画で主人公のVが「小説家は嘘で真実を語る」というように、ここでは「嘘」の軸足に「ガイ・フォークス一味による議会爆破未遂事件」(1605・11・5)が使われる。全身が火傷のV自身、ガイの仮面をつけている。「嘘」によって示されるこの映画の「真実」とは、現下の世界情勢なのだ。

 ガイ・フォークス事件は、英国国教徒、それへの造反分子の過激派ピューリタン、そしてカトリック教徒が、エリザベス一世没後、スコットランド王家から英国王となったジェームズ一世をめぐる三つ巴の権力闘争で、カトリック教徒があえなく敗退した絶望から引き起こしたクーデター未遂事件だった。フォークスらは「四裂きの刑」に処せられたが、これは処刑前に市中引回しの上で絞首刑、その後で死体を四裂きにする(映画では絞首刑のみ)。以後、処刑日は祭日となり、処刑の過程を人形で繰り返し、爆薬が用意されていた議会の地下を赤服の衛兵が捜索するのが祭りの儀式になってきた。これを見ても明らかにプロテスタント(国教徒その他の新教徒)の祭日なのだが、いつしかカトリックも祝うようになった(ただし、「パン作りの国会議事堂を作って、一同でパンを食らい、花火で爆破しては?」などという提案が教徒側から出されたりする)。しかも映画でVが歌う、「忘れるな、11月5日を忘れるな、火薬、国家反逆。爆破の陰謀を忘れていい理由などあるわきゃない」という俗謡が実際に生まれたように、ガイ・フォークスはカトリックばかりかプロテスタントとっても、すべての英国人の反逆の象徴になっているのだ。2004年は、この事件の400周年だった。

●なぜ「核の冬」は2020年の近未来に設定?●

 では、二つの宗派の抗争は過去のものになったのか? 違う。「北アイルランド紛争」(1968〜)でロンドンも爆破テロの標的になり出して以来、議事堂地下の捜索は儀式どころか、本格的なものに一変した。

 こうして、フランス革命もアメリカ革命も経験しなかった英国では、ガイ・フォークスが革命の代替物になった。つまり、この事件は、英国にとって400余年前に起きた「9/11未遂」だったのである。

 英語で fellow を意味する guyは犯人の名に由来し、元々は「グロテスクな風采の人物」を意味したのが、今日の普通の意味に変わってきた。素性はよかったものの、連隊旗手にすぎなかったガイは、火薬操作の達人で、Vのように雄偉な体格だったのである。

 この映画では、ガイを手始めに、以後幾つもの「革命」が歴史の連鎖となって2020年のVの「革命」にまで繋がるという筋立てになっているから、一種、トロツキーの「永久革命」を連想させる。2004年がガイの事件の400周年だったことも、「連鎖」の概念を製作者側に強めた。映画の時代は国教だけが唯一合法で、しかもその国教が独裁者サトラーの下位に立つから、ガイの時代より悪化している。

 ガイの事件は、英国の「9/11未遂」に当たるわけだが、ここで「革命か、テロか?」がこの映画の主題面での綱渡りとなる。現実にはこの2つは同根であり、原作ではVはモンスターとして描かれる。例えば、<▲昨今▲>イラクを騒がせたザルカウイは、われわれの目にはテロリストだが、イスラム教徒の一部には英雄的モンスターだろう。

 しかし「9/11」以降の「テロとの戦争」の文脈では、Vのモンスター度を和らげるしかなかった。イーヴィとの淡いロマンス、いわゆる岩窟王やオペラ座の怪人の主題が入る理由である。イーヴィ役のナタリー・ポートマンには、自分自身の演技に加えて、ヒューゴー・ウィーヴィングの仮面だけの演技に血肉をつける困難な重荷が課せられたが、不死身でもなんでもない彼女の脅える姿が、この映画に見事に人間的要素を与えている。

 <▲そればかりではない。アダムの妻と同じ名を持つ彼女こそ、Vの復讐に「革命」の要素を付与する──いや、「復讐」を「革命」の胎児として産み落とす役目を担うのだ。▲>

 さて、映画では、第三次大戦がすでに起きてしまい、アメリカは南北戦争後初めての内乱の最中にある。英国では独裁者サトラーが覇権を掌握、「核の冬」で懲りた彼は核兵器を廃絶して第四次大戦への道を閉ざしている(鉄砲の製造を自らにも禁じ鎖国した徳川幕府に酷似)。核廃絶は市民的自由を犠牲にしないと成立しない──これは「9/11」以後のブッシュ政権の論拠、「レス・シキュア、レス・フリー(安全減れば自由減る)」に劣らない、笑えない皮肉ではないのか。

 第三次大戦の原因は映画では明かにされないが、今日の状況から容易に想像がつく。アメリカは日中欧に国内市場を開く代償として彼らに悪名高い「アメリカの双子の大赤字」の補填を米国債・社債の購入と投資で肩代わりさせ、辛うじて持ちこたえている(1日につき21億ドル)。世界最大の債務国が世界を動かし、しかもその債務国の通貨、米ドルが世界通貨──こんな奇妙な資本主義は世界史上でも空前絶後だ。この「虚の経済構造」のどこか一角が崩れれば、未曾有の世界大恐慌が結果し、容易に世界大戦に突入してしまう。私たちは何ともシュールな時代に生きているわけだが、大戦を生き延びても映画の英国のようなもっとシュールな現実が待ち構えているのである。この映画に現実感が乏しいという批評家がいるが、彼は上記の事情を理解していない。だからこそ、映画は近未来をたった20年後に設定しているのである。

●狼どもの暗殺、仮面による「羊たちの覚醒」●

 それにしても、最後のシーンで膨大な数の民衆がVの送りつけたガイ・フォークスの仮面をつけて議事堂に集結してくる光景には、誰しも困惑したのではないか。あの光景は、一体、何を象徴しているのだろうか?

 物理的には、いかにもナチスを連想させる特殊人体実験の研究施設をそこの被験者だったVが自らの手で爆破した際、全身に負った火傷、その顔面を隠す道具である。

 他方、あの仮面をかぶらない登場人物は、イーヴィ、最後には目を開かれるとはいえ当局側のフィンチ警視、そしてテレビ司会者のゴードンがいる。ゴードンは「隠れゲイ」で、有色人種、イスラム教徒、ゲイなどを非合法化したサトラー政権への憤怒の度合いではVに次ぐ存在だ。彼はサトラーを笑いのめす番組を制作・放映して虐殺されるのだが、Vとゴードンはイーヴィを匿うばかりか、彼女にエッグ・ベネディクトという食パンに卵を載せて炒め焼きする朝食を作ってやる点でも偶然一致している。これは、独裁者への抵抗 は、風刺か暗殺しかないことの寓意である。

 Vは、独裁者や彼の配下よりも、民衆の怯懦を憎む。だからこそ、自ら配下を使ってサトラー政権を装い、イーヴィに拷問を加え、髪まで剃って最後までVを裏切らない強者に仕立てあげるという極端な行動に出る<▲(こうして彼女を「革命の母」に仕立てあげたのだ)。▲>民衆への働きかけは、国営テレビ局を乗っ取り、「罪ある者を探すなら、鏡を見よ」と、国民の怯懦こそ犯罪だと突き放し、各戸毎に仮面を送りつけ、それをつけた民衆が個々に反撃の落書きなど抵抗に打って出る契機を作る。Vが政権幹部を次々と暗殺していくのは、「狼を殺せば狼の言いなりだった羊も自分で考えるようになる」という判断なのだ。そして、決定的な台詞、「民衆は政府を恐れてはならない。政府こそ民衆を恐れるべきなのだ」、これは「民主主義とは羊が狼を支配する」逆説の制度だという主張なのである。しかも、私たちが依拠する「羊が狼を支配する」はずの民主主義体制の下では、政治家らは「民衆を恐れない」(だからこそ収賄その他がはびこる)のに、「狼が羊を支配する」独裁体制下ではサトラーが「民衆を恐れ」ればこそ、秘密警察政治の体制を敷いたことと、笑えない照応関係にあるわけである。

 上の決定的な台詞<▲「政府こそ民衆を恐れるべきなのだ」▲>は、アントニオ・ネグリの思想の根幹をなしている。ネグリは、イタリアの「赤い旅団」によるアルドー・モロ首相(キリスト教民主党)殺害(1978)に関与の容疑でフランスへ逃れ(後に殺害関与は無罪。思想面での余罪で17年服役)、ミッテラン政権下でガタリ、フーコー、ドルーズらと大学で教鞭をとった政治学者である。ネグリは「帝国」に抵抗する「大衆(マルティテュード)」の概念を提示した人物だが、彼の「帝国」は「高度管理社会」で、サトラーのような個人としての独裁者ではなく、社会機構総体が「非人格的な独裁者」になり、彼の「大衆」は例えば南米で反政府闘争を続けた神父たちの「解放の神学」風の自律的有機的な抵抗を実践する「顔のない」大群衆である。だが、映画でまさに「顔のない」または「顔を隠した」大群衆が集結したとき、彼らを恐れるはずのサトラー政権はすでにVが徒手空拳で倒壊させ、V自身が自決的な最期を遂げた後は、イーヴィがフィンチ警視の黙認の下に<▲数百年間にわたる▲>重苦しい権力の象徴、議事堂を爆破してのけ<▲、 「革命の母」となるのだ。▲>。

 では仮面は何を象徴しているのか? 結局、製作者側は、ガイ・フォークスのひそみに倣うことによって、一人一人が「大衆(マルティテュード)」の戦列に参加する以外にないと言おうとしているように思える。V自身、仮面は、自ら負った火傷は自分の復讐と「テロ=革命」の暴力によって精神に負ったケロイドを隠し、逆にそれらをパワーへと核変化させるための装置である。個々の「大衆」にとっては、仮面は自分の弱さを隠すための自己武装の象徴であると同時に、仮面によるアイデンティティの秘匿こそ個々の自己防衛エゴを乗り越えて革命のうねりに身を委ねさせてくれるのだろう。
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