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映画16_3.『ゲド戦記』とカウンターカルチャー

 カウンターカルチャー(対抗文化)とは、一九六○年代から七○年代にかけて起きたヒッピー革命の別名だが、基本的に二つの機能を持っていた。(1)「高度管理社会」による「意識の支配」を克服、限界がきたキリスト教よりも東洋思想やドラッグを駆使して「収縮した意識の拡大」と、「拡大された意識」の持ち主たちの「大集合(トゥギャザーネス)」によって高度管理社会と対決する。(2)アフリカ系などの公民権運動と連帯、世界中の文化に優劣なしと見なし、たがいの共存を実体化する「文化多元主義」を広める。

 高度管理社会とは、誕生年が一九五○年代以降の人々が生まれ落ちた社会で、基本的にはTV画像など、世界が二次元の表面だけに還元された生活環境、「表面」の背後に意味や本質などないとする世界である。逆に言えば、意味や本質は物心両面での三次元や四次元の世界にしか存在できない。今日、画像を想像力によって喚起するのが本来の「文学」がすたれた最大の原因である。現実がTV画面などの仮想現実に還元されてしまった高度管理社会では、「文学」がルグィンの登場人物たちが失った魔力に相当するわけだ。

 ルグィンの物語が産業社会以前に設定されているのは、逆に高度管理社会の意図的排除とも受け取れる。アースシーという大群島世界が舞台なのは、意識が収縮され易い陸封世界よりも、意識が拡大され易い海洋世界を意図したのかもしれない。インドネシアは島が二万余集まった群島国家だが、この地理的条件自体が「トゥギャザーネス」を連想させる。地中海や南シナ海は内海文明の拠点だったが、周囲を陸封されていたのに対して、アースシーは大洋の中に大群島が浮かんでいる。

 主人公その他が、「隠し名」を持っており、相手の隠し名を言えば相手に勝てる作りは、「拡大された意識」への到達と習熟を思わせる。オウム真理教徒も隠し名を与えられていたのは不吉だが、元来、探検家や科学者は未知の領域に挑んだときは、それに真先に命名する特権を持っていた。命名されたとき、初めて世界に存在できたのである。

 カウンターカルチャーは対象の本質に迫る手段に東洋思想を用いたが、特に『易経』は必読書だった。ルグィン自身、道教の教え、特に慎重な長い非行動と決定的瞬間に限定された行動、正反対の要素は敵対しつつ相互依存、全体の均衡を構成する──この二原理を物語の結構によく用いた。その典型がゲドが解き放つ自分自身の悪霊で、最大の敵は自分自身の例え通り、彼は逃げ回るのだが、ついに師匠オギオンの助言で相手に自分の隠し名を与え、相互依存にこぎつけ、均衡を回復するのだ。また、自身の悪霊はカウンターカルチャーの白眉だったドラッグ・カルチャーによるバッドトリップをも連想させ、最後に相互依存に至るのも、ドラッグの助けを借りて事の本質に迫ったティモシー・リアリーたちを思い起こさせる。また、ゲドが自身の悪霊と入り込む死者の世界は、当時愛読されたティベット仏教の『死者の書』を思わせる。

 またゲドが隠し名を言い当てて支配するドラゴンは、キリスト教のサタンが龍であるのと照応するが、象徴の二重性によって来るべき産業社会(そして高度管理社会)の前触れでもあるだろう。イヴを誘惑しして禁断の木の実を食わせた蛇を始め、元来、人類が爬虫類を非常に恐れ、龍という架空の存在を創り出したのは、恐竜がユカタン半島への大隕石の激突で滅亡しなければ人類は爬虫類から発生していたはずだからという説がある。ともかく、テハヌーはドラゴン、カレシンの娘としてゲドとテナーという人間の養子となる。

 公民権運動や文化多元主義というカウンターカルチャーのもう一つの側面との関連では、言うまでもなくルグィンがゲドその他、大半の登場人物を有色人種に設定したことに如実に表れている。北欧伝説に対置して、ネイティヴ・アメリカンの伝説も随所に使われている。

 ところが、二○○四年終わり、アメリカのサイファイ・チャンネルが制作した『アースシーの伝説』は、主人公始め、大半の登場人物が白人にされてしまったことに対して、ルグィンは激しく不満を表明した。ルグィンは、ゲドを赤褐色の若者として描いたから、明らかに作者はネイティヴ・アメリカンをイメージしていたわけだが、「だだっ子のようなホワイトキッド」にされてしまったと怒り、抗議の記事に「ホワイトウォッシュド・アースシー」という題名をつけた。「白い塗料を塗ったアースシー」の意味だが、むろん、有色人種を白人に変えたこと、依然として白人支配のアメリカ社会という欺瞞を観客に押しつけた、つまり「表面を取り繕う」の両義がある。主要人物で有色人種の俳優を使ったのは、オジオン役のアフリカ系俳優ダニー・グラヴァーただ一人、後はアフリカ系は槍持数名と、ルグィンは書いている。そして、映画関係者が白人にこだわったのは、ファンタジーが北欧起源だからか?と揶揄し、なるほど自分は白人だが、事、登場人物では、今や世界でも少数派になってきた白人にこだわる気はさらさらない。自分の登場人物は大半が有色人種だと断言している。アースシーでも、東部のカーギッシュ人は白人だが、その子孫は、テナー(ブルネット)のように、アーキペラゴー(群島)にもいるけれども、有色人種と共存していると主張、そのテナーが問題の映画では、総勢中ただ一人のアジア系として描かれている皮肉にも言及している。私見だと、女性差別を反映して、ゲドを白人男性、テナーを有色人種女性として描いたのだと思われる。強者を男性白人、弱者を女性有色人種に描くのは、ピンカートンとマダム・バタフライ以来、不変の傾向だ。

 そのテナーが魔術師養成のローク校に男しか入れないことに不満を抱く点で、ルグィンはカウンターカルチャーの最後に爆発したウーマンリブの片鱗をも覗かせた。

 隠された無名のパワーは、「ネイムレス・ワンズ」やコッブが扉を開いてしまった「影の国」などにちらつくのだが、特に後者の場合、ゲドたちはおろか、ドラゴンたちまで魔力を封じられた点で、来るべき高度管理社会の「意識の支配」の禍々しい到来を思わせる。現実が二次元の仮想現実に還元されてしまったとき、創造的な「魔力」は死ぬ。ただし、ルグィンは道教の哲理に従った死の受容として物語を収めるので、高度管理社会は現代の私たちにおける「影の国」としてカウンターカルチャーのように反抗の対象としてではなく、相互依存の対象として受容しなければならないというのだろうか?

 前述のサイファイ・チャンネルの映画が物語を「信じる者」と「信じない者」との戦いに図式化したことに対しても、ルグィンはブッシュ政権のキリスト教vsイスラム教の対決図式とタブらせ、「アースシーはイラクではない」と怒りを表明した。

 カウンターカルチャーは、ユートピアを精神世界ばかりでなく、現実の地上世界にあらしめようとする運動だった。その文学形式としては、ファンタジーが最適だったわけだが、異質文化が共存できるアースシーという大群島世界を地図に描くルグィンの姿は、「アースシーはイラクではない」という短い言葉によって予想外の時局性を帯びた気がする。そして、彼女の最初の三部作をカウンターカルチャーの時代に栄養分とした膨大な読者たちが作る「トゥギャザーネス」もまた、ファンタジーを逃避の場所とすることへの反省と 不満を支えとしているのではないか。
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