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映画17_1.世界を支配するハリウッドの神々

〔ハリウッドとは何か?〕

 現在のハリウッドは、「第二次スタジオ・システム」の時代に突入したといわれる。一九九五年、ディズニーによるABCテレビ、ウェスティングハウスによるCBS、タイム・ウォーナーによるTBS、それぞれの買収を頂点とする「メディア・ウォーズ」がその口火を切った(詳細は『宝島30』九五年十一月号拙稿「メディア・ウォーズと<全体主義>の時代」参照)。この引き金を引いたのは、ビデオ・オン・ディマンドを目指す「映画会社=ケーブルテレビ会社=電話会社」の連携合戦に、ビデオ・オン・ディマンド実用化の遅れで、その繋ぎとして急遽従来のテレビ会社が必要度を増したこと、それを見越したように、連邦コミュニケーションズ委員会による種々の通信法の規制緩和が断行されたこと、この二つだった。しかし「メディア・ウォーズ」の結果、巨大化したスタジオ(映画会社)が、映画製作に必要なもの全てを独占し、監督や俳優らはスタジオ・システムで縛られる可能性が出てきたのだ。

 「第二次」という以上、「第一次スタジオ・システム」の時代も存在したわけで、それはテレビが普及する一九五〇年代まで続いた。五〇年代には、俳優たちは映画を棄てて、テレビの世界に活路を求めたため、スタジオ・システムによる彼らへの縛りは無意味となった。俳優たちに活路を提供したのが、俳優斡旋エージェントである。「第一次」と「第二次」のスタジオ・システムの間に、「エージェント支配」の時代が介在することになる。最大のエージェント、CAAのトップ、マイケル・オーヴィッツは、千名を越える映画関係者のエージェントとして、「パッケージ・ディール」(脚本家・監督・俳優をパッケージにしてスタジオに企画を売り込む形)でスタジオを支配下に置いただけでなく、ソニーやマツシタにスタジオ買収の手引きをするなど、企業体売買の斡旋にまで手を広げた。そのオーヴィッツがCAAを棄て、ディズニーのナンバー2としてスタジオ側の一員になったことで、エージェント支配の時代が終わり、「第二次スタジオ・システム」の時代が始まったといわれるようになったのだ。

 エージェント支配の時代には、エージェントの強力な要求によって有名俳優の出演料は鰻上りに釣り上げられた(例えば、マツシタからシーグラムが買収したMCAは、最近シルヴェスター・スタローンと三本六千万ドルで契約した)。その結果、俳優の間でも自ら製作や監督の機能に手を出すなど、企業家意識が広がる形で、彼らのエゴが拡大した。それだけスタジオの力が削がれたのだ。しかし「第二次スタジオ・システム」時代の到来で、そういう俳優たちの百家争鳴的な自己主張が封じ込められ、画一化の時代に逆戻りする恐れが濃厚となった。

 さて、「第一次スタジオ・システム」時代の「ハリウッドの神々」は、MGMを作ったルイス・B・メイヤーとサミュエル・ゴールドウィン、『風と共に去りぬ』のプロデューサーで独立プロの草分けデーヴィッド・O・セルズニック、二十世紀フォックスのダリル・F・ザナック、ウォーナー兄弟、ウォルト・ディズニーらだった。「第二次スタジオ・システム」時代の「ハリウッドの神々」は、オーヴィッツ、「メディア・ウォーズ」の引き金を引いたディズニーのマイケル・アイズナー、CNNのテッド・ターナー、ルパート・マードック、タイム・ウォーナーのジェラルド・レヴィーンらである。この二グループを繋ぐ立場にいるのが、MCAのルー・ワッサーマン、やや若いが近年亡くなったタイム・ウォーナーのスティーヴ・ロスだった。

 ワッサーマンは一九三〇年代後半、ハリウッド全盛時代、二十三歳でエージェント会社MCAに就職したが、その前はクリーヴランドの映画館の案内係だった。戦後MCA社長となり、持ち前の柔軟ながら凄味のある経営ぶりでハリウッドに勢力を扶植、一九六一年ユニヴァーサル映画を買収したが、翌年、独占禁止法に抵触、エージェント部門を切り捨てざるをえなくなった。MCAの社名は残し、以後ワッサーマンは、ハリウッドの帝王にのしあがる。それから三十三年後のMCAのシーグラムへの売却劇は、ワッサーマンら中継世代の退場劇でもあった。

 ワッサーマンは、「メディア・ウォーズ」に乗り遅れまいとマツシタにCBS買収の資金提供を求め、大阪本社に乗り込んだが、二線級の重役らに二時間あしらわれたあげく、会議を終えて出てきた森下洋一社長らに拒否される屈辱をなめた。外国企業マツシタにはテレビ会社の二五%しか保有できないし、MCAの業績もよくない。しかもMCA買収の責任者・谷井昭雄前社長はマツシタ全体の業績不振を理由に降板させられ、新任の森下社長には「バブル崩壊」の今日MCA拡大の情熱はなかった。最も長期政権を保持したハリウッドの帝王ワッサーマンMCA会長がそこを読み違えたのは、相手が外国企業ゆえだったろう。彼は部下のシドニー・シャインバーグMCA社長の口から公然と、マツシタの冷淡な態度を批判させた。彼らは圧力をかけたつもりだったが、マツシタ側は交渉途中に経緯を批判的に公開したワッサーマン側に激怒し、彼らを無視して、かつてMCA買収で世話になったオーヴィッツに今度は売却の相手探しを依頼し、結果的にシーグラムがMCAの八〇%をわずか五十七億ドルで入手した(九一年の買収価格は六十五億九千万ドル。九五年時点の価格で百億ドルは堅いといわれた物件だ。ルパート・マードックやヨーロッパの大手芸能メディアも買い手に名乗りをあげていただけに、なんでもオーヴィッツ頼りのマツシタ側の不甲斐なさが目立つ。鬱憤晴らしはワッサーマンを聾桟敷に置いたくらいで、よけい惨めだ(詳細は『宝島30』九五年八月号拙稿「謀略のハリウッド」参照)。

 オーヴィッツは九四年七月、ハーバート・アレンという投資銀行家がアイダホ州サン・ヴァリーに所有するリゾート・マンション群で、ここ十数年、毎夏一週間にわたって開催してきたメディア王たちの夏期セミナー「世界戦略会議」に、MCAの買い手シーグラムのエドガー・ブロンフマンJrを伴った。ブロンフマンはかつて家業の酒会社を継がず、映画製作者になることを熱望していた人物だが、すでにMCA買収の五か月前に、オーヴィッツが彼をメディア王たちに紹介していたことになる。すでにオーヴィッツは、マツシタのMCA売却を見越し着々と手を打っていたわけで、彼がMCAの公開売却をしぶった道理だ。オーヴィッツが口をきいたソニーも、ピーター・グーバーら首脳陣の金遣いの荒さに手痛い被害を被り、しかもヒット作は作られず、九五年には二十七億ドルの減価償却を公表するはめになった。

 ところがハーバート・アレンは、オーヴィッツ以上にマツシタのMCA売却に関与していたのだ。それどころか、九〇年にはアレンはマツシタのMCA買収ではマツシタを代表している。つまり、オーヴィッツとアレンは一蓮托生なのだ。マツシタ側はアレンに、ワッサーマンらに手を焼いている窮状を訴え、彼のつけた時価七十〜八十億ドルを鵜呑みにしている。しかもアレンは、九三年のヴァイアコムによるパラマウント買収を非公開取引と非難したくせに、自分は非公開取引でMCA売却をやってのけた。それどころか、ブロンフマンのタイム・ウォーナー株一五%購入もアレンが世話している。

 アレンの「世界戦略会議」が何の「世界戦略」を指すかは、このセミナーの常連たちの顔触れを見れば明らかである。ルパート・マードック、最大のケーブルテレビ会社テレコミュニケーションズのオーナー、ジョン・マローン(彼はターナーのTBSを握り、TBSのタイム・ウォーナーとの提携でタイム・ウォーナーにも食い込んだ)、元パラマウント会長のバリー・ディラー、NBC社長ロバート・ライト、スピルバーグと「ドリームワークスSKG」を作ったジェフリー・キャッツェンバーグとデヴィッド・ゲフィン、キャッツェンバーグをナンバー2の地位に据えず、結局退社に追いやったマイケル・アイズナー(結果的にナンバー2の地位はオーヴィッツに与えた)、バリーとパラマウント争奪戦を演じて勝ったヴァイアコム会長サムナー・レッドストン、アレンの仲介でソニーにコロンビア映画を売却したコカコーラ会長のロバート・C・ゴイズェタ、ビル・ゲイツらが常連だ。アレンは写真家を雇い、ハイキングするゲイツや魚釣りに興じる投資家ウォーレン・バフィットなどの姿を、日々会場に張り出させる。セミナーはレジャー主体だが、その雰囲気の中で商談が進行し、アレンがその幾つかに介在して利益をあげるのである。

 アレンはゴイズェタに一九八二年コロンビアを買収させ、八九年にソニーに売らせた。また八七年、レッドストーンのヴァイアコム買収に手を貸したが、九三年のパラマウント買収ではディラーを助け、レッドストーンを敵に回した。しかし戦い終われば呉越同舟、敵同士がアレンのセミナーに顔を揃えるのだ。重役十五名、社員百六十名という小さな「アレン&カンパニー」が、「最高のハリウッド投資銀行」と呼ばれる所以だ。口利き料は最低百万ドルだが、「お志」という日本的なもので、例えばディラーが挫折したパラマウント買収の仲介実費も含めて百万ドル余を贈ると、アレンは成功報酬がとれないからと丁重に送り返してきた。ディラーは所有していた買い物情報のケーブルテレビ網QVC売却をアレンに依頼し、その口利き料一千万ドルを成功報酬としてアレンに受け取らせた。アレンは買収や売却の融資だけでなく、究極の決断までアドヴァイスするので、剛腹な事業家らも彼には一目も二目も置くのだ。パラマウント買収でのディラーの挫折も、アレンのせいではなく、ディラーが付け値の上限を越えるのを渋ったためだった。アレンはマディスン・アヴェニューで強盗から銃を奪い、警官がくるまで押さえ込んでいた武勇伝の持ち主だが、それを二度目の妻となる女性にもいわない奥ゆかしさがあるものの、MCA売却でマツシタに対しては極めてそっけない態度をとった。柔と剛の両面兼備なのだ。

 アレンの父方の祖母がユダヤ系だが、父親は改革的なキリスト教宗派のユニテリアンで、母親はアイリッシュのカトリック教徒だという。作家トム・ウルフは『虚栄のかがり火』に登場する判事に、アレンのイメージを投影した。現在五十六歳である。

1.マイケル・D・アイズナー

  一九四二年生まれ。ディズニー映画会長。
九五年の「メディア・ウォーズ」の引き金を引いた男。
ニューヨーク州マウント・キスコの裕福なユダヤ系の弁護士兼投資家の家に生まれる 。母方の祖父は「アメリカン安全剃刀会社」創立者。夕食には上着にネクタイという躾けの厳しさから、後年独立してからはだらしなくなり、仕立ておろしのスーツはすぐ皺だらけ、ネクタイは歪むという有り様になる。一九六四年オハイオ州の小さな大学デニズン卒(英文学・演劇専攻)。NBC入社後六週間でCBSに移るが、もっと面白い仕事を求めて履歴書二百通を発送、ABCのプログラマーだったバリー・ディラーだけが返事をくれ、同社に移る。性格が子供っぽいので児童部門に回され、「ジャクスン・ファイヴ」でマイケル・ジャクスン兄弟を売り出す。直観的に大衆の関心を探り当てる才能があり、業界三位のABCがトップに立つ上で最大の力量を発揮、順調に幹部の階段を上昇したが、七五年ディラーからパラマウントへの誘いがくる。ディラーは七四年にABCを去り、パラマウント会長に就任していた。ABCの一位が不動となったので退社、七六年パラマウント社長に。低迷する同社建て直しが目的で雇われただけに、ディラーは少ない製作コストでいい映画を作る必要に迫られ、アイズナーは他社が平均千二百万ドルかけるところを平均八百万ドルでがんばる。同時にテレビ会社の企画担当者だったディラーとアイズナーは、「映画の核はいいストーリーだ」という確信を基礎に脚本読みに没頭、大手五社が出資と配給だけでお茶を濁している隙に、五社の製作作品を合わせたより多い年間平均十五本の製作ペースを維持し、パラマウントは六社中ビリからトップに立った。ヒット作は『サタデイ・ナイト・フィーヴァ』、『天国から来たチャンピオン』、『グリース』。七八年度などはトップ・テン中五本が同社作品で占められた。以後も『レイダース/失われたアーク<聖柩>』(八一。ディラーは乗り気でなかったがアイズナーは断行、興収二億五千万ドルをあげた)、『普通の人々』、『エレファント・マン』、『レッズ』、『ビヴァリー・ヒルズ・カップ』、『スター・トレック』もの三本。アイズナーのアイデア作品ではホーソーンの『緋文字』をヒントに作らせた『フットルース』(八四)、ディナーの雑談で無名の脚本家が『大空港』のパロディを作ったのを聞いて製作した『フライイング・ハイ』(八〇)は、製作費わずか六百万ドルで八千三百万ドルの興収をあげた。八三年、親会社ガルフ&ウェスタン産業の新会長マイケル・デーヴィスと折り合いが悪くなったディラーが去り、二十世紀フォックス会長に就任したが、やはりデーヴィスと折り合いが悪いアイズナーには会長ポストがこず、八四年アイズナーは突如パラマウントをやめ、ディズニーの会長に就任した(年収七十五万ドル、ボーナスと株式譲渡という条件は当時の映画実業家では最高)。自身子供っぽいアイズナーは、児童映画が好きで、それがふんだんに作れるディズニーに決まったとき、「おもちゃ屋で勝手にしていいといわれた子供みたいな気がした」と述懐している。ウォルト・ディズニーの児童映画路線は六六年の彼の死で終わり、『レイダース』や『スター・ウォーズ』に熱狂する若手観客にはディズニー映画は古臭くなり、もっぱらテーマ・パークの収入に頼る状況で、八四年には悪名高い乗っ取り屋ソール・スタインバーグらにTOBをかけられる始末だった。ディズニー映画の常識を破るおとな映画『ビヴァリー・ヒルズ・バム』をヒットさせ、ABCに「ディズニー日曜映画」をカムバックさせ、自ら番組のホスト役を買って出て、同社の顔になった。海外へのディズニー映画販売部門を発足させ、中国など未開拓の市場を狙った。ついで『殺したい女』、『ハスラー2』(ポール・ニューマンが最初のアカデミー受賞)などをヒットさせ、業界三位まで押し上げた。それでも同社の収入の四分の三はテーマ・パークやホテルからのものだった。アイズナーはディズニーランドに、千七百万ドルかけてジョージ・ルーカス製作、マイケル・ジャクスン主演のビデオ・ミュージカル『キャプテンEO』、三千二百万ドルかけて宇宙船を、新たに追加させた。さらに東京ディズニーランドの成功を見て、パリ郊外にユーロ・ディズニーランドを計画したが、これは文化保護に神経を尖らすフランス政府から邪魔が入り、営業不振である。一九三七年に同社を破産から救った『白雪姫』を再び世界に売り出した。そして九五年、ABC買収を断行、「メディア・ウォーズ」の口火を切った。

2.ハーバート・アレン──本文参照。スタンリー・シューマン

3.マイケル・S・オーヴィッツ

  一九四六年生まれ。ディズニー映画社長。

  「エージェント支配」時代の帝王だったが、ディズニーのナンバー2となって、「第 二次スタジオ・システム」時代の引き金をひいた。

  酒卸業者の息子としてシカゴに生まれ、六歳のときロサンジェルス郊外サン・フェルナンド・ヴァリー、エンシーノ郡の労働者街に移る。RKOスタジオに潜り込み、映画製作現場を「見学」。子供時代から指導力を発揮、高校では自治会長、UCLA(医学部進学コース)のフラターニティの会長に選ばれ、「キング・オーヴィッツ」と呼ばれた。学生時代はユニヴァーサルと二十世紀フォックスのスタジオツアー・ガイドでアルバイトした(ユニヴァーサルはワッサーマンが獲得して三年目に入っていた)。医学部へは進まず、卒業単位をとると、「芸能界に最大のコネができるのは俳優斡旋エージェンシー」という考えから、大手のウィリアム・モリスに就職、新人の職場であるメイリング・ルームに配置されたが、六割が脱落するといわれる同社の厳しい特訓を受けた。遅くまで働く姿を気に入られエージェントに昇格。しかし低賃金と昇格しないのに業を煮やし、ついに七四年末ロン・メイヤー他三名と図って退社、クリエーティヴ・アーティスツ・エージェンシーCAAを結成、各自の妻を交代で秘書に使う苦しいやりくりの果て、ABCでアイズナーが手がけた「ジャクスン・ファイヴ」の仕事などをもらう(アイズナーとはこの当時からの縁だった)。相手の弱点を見抜く才能に恵まれ、ラスプーチンのように催眠効果のある視線と低い声で相手を引き込み、相手の弱点を上手に補強してやるので、見る見る人脈を広げると同時に、主にテレビ相手に脚本から配役に至るまでCAA側がセットする「パッケージ・ディール」を開発した。七九年にはウィリアム・モリス社とインターナショナル・クリエーティヴ・マネジメント社に次いで三位になり、八〇年代半ばにはトップに立った。この間、社員にはCAAの情報を外部に洩らすことを固く禁じたが、これはワッサーマンに倣ったやり方だった。オーヴィッツはワッサーマンに憧れ、彼を逐一観察して、マスコミ嫌いまで真似したのだ。MCAのシーグラムへの売却は、自分が勝手に担いだ「師匠」に対する「お返し」だったわけである。おしゃべりな監督や俳優も、オーヴィッツのことに話が及ぶと、とたんに沈黙した。オーヴィッツ恐怖症が広がり、「彼を怒らせると、ハリウッドでは出世できない」とまでいわれた。CAAが抱える千名余の中には、俳優ではウォーレン・ビーティ、シェール、ショーン・コネリー、ケヴィン・コスナー、トム・クルーズ、ロバート・デニーロ、フーピー・ゴールドバーグ、ジーン・ハックマン、トム・ハンクス、ダスティン・ホフマン、ジェシカ・ラング、デミ・ムーア、ポール・ニューマン、アル・パシーノ、ロバート・レッドフォード、シルヴェスター・スタローン、メリル・ストリープ、バーブラ・ストライサンド、ロビン・ウィリアムズら、監督ではシドニー・ルメット、アラン・パーカー、マーティン・スコーセシ、スティーヴン・スピルバーグ、オリヴァ・ストーンら、脚本家ではスティーヴン・キングやゴア・ヴィダルら、音楽関係では、ニール・ダイアモンド、マイケル・ジャクスン、マドンナ、プリンス、ティナ・ターナー、スティーヴィ・ワンダーらがいる。またCAAが密接に関与した映画では、『トゥーツィ』(八二)、『ゴーストバスターズ』(八四)、『レイン・マン』(八八)、『ミシシッピ・バーニング』(八八)、『タンシズ・ウィズ・ウルヴズ』(九〇)、『グッドフェローズ』(九〇)、『シアトルで眠れずに』(九三)、『ジュラシック・パーク』(九三)など。他のエージェンシー内ではエージェント同士の競争が激しいのに、CAAの社員六十〜百名はたがいに協力し合うよう、おーヴィッツは指導した。八〇年代後半からオーヴィッツは、ソニーやマツシタへの映画会社売却などの国際事業に手を出した。日本の事情を知ろうと、ライシャワーや松下幸之助の著書も読んだ。「パッケージ・ディール」の要領で、オーヴィッツは銀行家、弁護士、パブリック・リレーションズ専門家などを一通り用意して、日本側の便宜を図った。ソニーからは手数料一千万ドル、マツシタからは千七百万ドルをもらったという(一説には四千万ドルで過去最大)。また九一年には、四十年来コカコーラの宣伝を引き受けてきたマッキャン・エリクスン社のお株を奪い、コカコーラの世界規模宣伝も引き受けた。これは前述のように、ハーバート・アレンの「世界戦略会議」でゴイズェタと出会ったおかげである。またナイクの世界規模宣伝も引き受けた。これだけ手を出しながら、勤務時間の八五%は本来の斡旋業務にふり当て続けた。大物映画人はオーヴィッツでないと手に負えないのだ(わがままな彼らとの応対に疲れて、もっと創造的な仕事に打ち込みたいというのが、ディズニー移籍の動機だという)。九五年、友人のエドガー・ブロンフマンJrのためにMCAを獲得してやったMCAに社長として移る気配を見せたが、時価八億ドルと見られるCAAに対する自分の権利五五%を相殺するためには少なくとも三億ドルをシーグラムが支払わないといけないというので、沙汰止みとなった。しかしわずか二か月後、ディズニーの社長ポストを受け入れて世間をあっといわせた。合気道を習い、人生を一年、二年、五年刻みで計画し直す。住まいはあのO・J・シンプスン宅があるロスのブレントウッドで、ピカソやミロの絵画蒐集は、個人所蔵のものとしては全米一クラスだという。

4.カーク・カーコリアン

  〔詳しいデータあり。面白い人物です。最近はクライスラーの株買い占めで評判になりましたが、またぞろマードックとMGMの株を取得しました。MGMをどれだけ食い物にすれば気がすむのでしょう〕

5.ジェフリー・キャッツェンバーグ

  〔詳しいデータなし。アイズナーにナンバー2にしてもらえず憤然と退社〕

6.ピーター・グーバー

  〔詳しいデータなし。ただしソニー関係で『宝島30』に書かせてもらったときのデータは充分あり。今はUCLAで映画を講じているはず〕

7.デーヴィッド・ゲフェン

  〔詳しいデータあり。〕

8.ロバート・C・ゴイズェタ

  〔コカコーラ会長は長期政権です。キューバ系の出世頭。詳しいデータあり。〕

9.マイケル・シューロフ

  〔詳しいデータなし。ソニー・アメリカ社長。グーバーの親友〕

10.スティーヴン・スピルバーグ

  〔詳しいデータあり。〕

11.テッド・ターナー

  一九三八年生まれ。現在タイム・ウォーナー社長。
  ケーブルテレビの効用に早くから着目、CNNというニュース専用局を創設して一時代を築いた男。「第二次スタジオ・システム」時代に乗り遅れまいと、ナンバー2の屈辱を呑み込んで、タイム・ウォーナーと合併した。

 本名ロバート・エドワード・ターナー三世。父親エドはミシシッピの綿農場生まれ。大不況で農場を失い、最終的には建て看板の会社を興した。この父親の過剰な英才教育がターナーの複雑な性格を形作った。その一端は、最初の妻ジュディの言葉、「義父はわざと息子を不安定にした。不安定だと大物にてれるから。不安定ならそれだけ競争意識が強まるからよ」から窺える。ターナー自身も、「建て看板の管理をやって週給五十ドルもらったら、一週間分の居候代として二十五ドル引かれた。こっちがちょっと高すぎない?っていうと、敵は七日間これ以上稼いだら、家を出てもいいよといわれたね」と述懐している。息子を兵学校スタイルの高校に入れたのも目的あってのことだったが、高校側ではターナー少年に手を焼き、「テリブル・テッド」のあだ名がついた。なんとかおとなしくさせようと上級生の寮に同居させたが、上級生らがターナーに顎で使われたという。総じて壮大なことが好きで、そういう事件や人物を歴史の中に求めた。アナポリス海軍兵学校をめざしたが、父親はビジネスマンの根性を鍛えるため兵学校式高校に入れたので、ブラウン大学へ行かせた。しかし専攻を古典文学にしたので、父親がむりやり経済学に変えさせた。手に負えない反抗児が、部分的に父親のいうことだけは聞く典型的なケースである。大学ではヨットクラブで活躍したが、両親の離婚問題に苛立ち、寮に女子学生を迎え入れた結果退学処分を受けた。六〇年、父親の会社の総支配人となり、事業に夢中になるが、六二年に父親がむりな事業拡大を断行、借金に苦しみ、事業縮小を図ると、ターナーは猛反対し、父親を罵った。六三年、父親は拳銃自殺を遂げた。ターナーは父親の英才教育の鬼子となったわけである。息子はみごとな手腕で事業縮小を食い止め、逆に拡大した。七〇年、アトランタのUHF局を買収してから、ケーブルテレビに手を出し、七五年、元々は三大テレビの専用として打ち上げられたRCAのサトコム1号に割り込み、四十七州の五十万世帯に映像を送り始めた。野球のアトランタ・ブレーヴズ、バスケットボールのアトランタ・ホークスを買収、これの広告価値を最大限に利用した。自ら球場で各ベースをはき清め、ホームベースを鼻先で押し、自らダッグアウトで生中継をやり、選手に球場で結婚式をあげさせるなど、道化芝居がすぎてコミッショナーから叱責された。七七年、アメリカズ・カップで「カレイジアス号」を買ってオーストラリアから覇権を奪還した。二人目の妻との間に生まれた次男をレットと命名するなど、『風と共に去りぬ』のファンで、  年カーク・カーコリアンからMGMを買収したのは、同社のフィルム・ライブラリー、特に『風と共に去りぬ』の権利掌握が狙いだったといわれている。南部貴族の伝統に倣い、南部各地にプランテーション・ホームを擁し、第三次大戦が起これば自給自足できると豪語している。七九年から今日のCNNの前身としてニュース放映がなされ始めた。〔これ以降は『宝島30』の拙稿にあり。〕

12.バリー・ディラー(QVC会長? 株売却のはず。アレン37参照)

 一九四二年生まれ。元パラウマウント会長。

 マイケル・アイズナーを発掘したが、自らもケーブルテレビ=電話会社=映画会社=テレビ会社の四社融合という時代の要求に乗ろうとして、パラマウント買収に挑み、武運拙く敗退したハリウッドの梟雄。  第二次大戦後、南カリフォルニアに数千戸の分譲住宅を建てた不動産業者の息子とて、幼時からやり手の父親に挑む形で個性を鍛えた。UCLAに入学したが、わずか四か月で中退、六一年に幼なじみの父親が俳優で、その口ききで俳優斡旋エージェンシー大手ウィリアム・モリスのメイリング・ルームに入り、特訓を受ける。社にくる手紙や書類で彼の手に触れるものは片っ端から目を通しただけでなく、契約映画人の保管書類全てを精読した。このすさまじい努力から培われた激しい性格は、後に当然多くの敵を作ることになるのだが、ともかくその努力の結果、六四年にフル・タレント・エージェントに。幼なじみはマーロ・トーマスという女優になり、彼女の紹介で後のABC副社長デヴィッド・ゴールドバーグと論争、逆に気に入られ、六六年副社長就任を機会に彼の助手としてABCに入社、映画製作会社との交渉を担当、自ら映画作りの現場を覗く異例の熱心さで、これが後の映画製作に肥やしとなる。CBSの児童部門プログラミングの下級社員だったマイケル・アイズナーが発送した二百通のレジュメの一つが手元に届き、ピンときたディラーは彼をゴールドバーグに推薦、六九年採用された彼をABCの土曜日朝の児童部門プラグラミング担当者に。ディラーの提案で六九年、ABCは映画の自社製作に踏み切り、彼をその部門の副社長として製作を担当させた。各社は散発的に自社製作映画を劇場映画の間に挿入放映していたが、「今週のABC映画」は自社製作のテレビ映画を毎週定期的に放映する番組の草分けとして大ヒットした。さらにABCエンタテインメントのゴールデンアワー・プログラミング副社長となり、アレックス・ヘイリーの『ルーツ』のミニ・シリーズ化などを手がけた。七四年、ガルフ&ウェスタン創立者チャールズ・・G・ブルードーンの招きでパラマウントの活性化を引き受け、会長となる。彼がくるまで他社作品の配給ばかりで、自社製作はわずか年間三本だったパラマウントに対して、テレビ界で磨いた腕で、従来の映画界の人間にはできない指揮系統の整備や自主製作への転換を断行、撮影設備、脚本、宣伝などの予算を四倍にした。宣伝は事前に系統立てた作品の適合ジャンルに的を絞ったので、皮切りとなった七六年の『キング・コング』は千軒の映画館で上映された。同年、アイズナーを社長として引き抜いた。アイズナーの冒険もの愛好とヒット作を見抜く直観、ディラーの知的な好みと甘さのない現実認識とが組むと、抜群の脚本選びコンビになった。ディラーはパラマウントの建て直しと映画自主製作を両立させるべく、他社が平均千二百万ドルかける製作費を平均八百万ドルに限定した。そのため自主製作へのコンビの介入は熾烈なものになった。七七年はまだ六社中最低だったパラマウントは、七八年突如『サタデイ・ナイト・フィーヴァ』や『天国から来たチャンピオン』などのヒットで年間興収三億八千四百万ドルをあげ、業界トップに踊り出た。以後はディラーの下ではトップにはならなかったものの、常にトップ3を保持し続けた。ディラーのお気に入りのヒット作が『普通の人々』と『エレファント・マン』、アイズナーのお気に入りが『レイダース/失われたアーク』である点にも、両者の好みの違いがよく表れている。コンビの下でテレビ・シリーズ製作も四倍になった。八三年ブルードーンが死に、後を継いだマーティ・デーヴィスと折り合いが悪く、すでにデンヴァの億万長者マーヴィン・デーヴィスから打診を受けていた、デーヴィスが八一年に購入した二十世紀フォックスへ八四年に会長として移った。年俸三万ドル+撮影所シェア5%+業績次第でのボーナスという好条件だった。建て直しといい映画作りが使命なので、人脈を駆使して人材を集め、財政面でも苦労したが、ルパート・マードックが五〇%を二億五千万ドルで買収、さらにメトロメディアなどを買収してテレビ部門を強化、三大テレビに継ぐ四番目のテレビ会社フォックス・テレビが誕生、これらはディラーの指揮下に入った。ディラー入社前は六億ドルあった借金が、一年後にわずか二億ドルに減少した。

13.マーティン・デーヴィス(パラマウント会長)

 〔ガルフ&ウェスタン会長を兼務。詳しいデータなし〕

14.エドガー・M・ブロンフマンJr

   一九五五年生まれ。シーグラム社長。

   九五年、化学会社デュポンの有料株二五%を売却してMCAを買収した。MCA社長には、CAAでオーヴィッツの片腕だったロン・メイヤーを据えた。
 〔詳しいデータあるも、不要ではないか? MCAの現状を少しで充分。『宝島30』の拙稿に詳しい〕

15.ルパート・マードック

 〔詳しいデータあり。〕

16.ジョン・C・マローン

  一九四一年生まれ。テレコミュニケーションズ社会長。

  全米のケーブルテレビ視聴者の二〇%強を掌握し、「メディア・ウォーズ」の帰趨を制する隠然たる勢力を発揮するので、ウォール・ストリートでは、TCIを「帝国」、マローンを「ダース・ヴェーダー」と呼んで恐れている。やばい四文字言葉を連発し、海兵隊の軍曹のような頑丈な体つき、右翼のラジオ・コメンテーター、ラッシュ・リンボーの愛聴者。

  コネチカット州ミルフォードの労働者街ながら十八世紀のコロニアル・スタイル家で育ち、父親はジェネラル・エレクトリックの技師(一説には副社長)、母親は教師。マローンは、土地柄から厳格なカルヴィニストだった父親から質素倹約、勤倹力行、専門技術職での成功という価値観を叩き込まれた。父親はフランクリン・ローズヴェルトを「社会主義者かそれよりひどいしろもの」呼ばわりした。マローンは小遣い稼ぎに古ラジオやポンコツを修理して売った。数学と理科の成績が抜群で、さらに恐るべき記憶力ゆえに奨学金を得てプレップスクールに移り、遊び友達だった労働者の子供らから疎外される。それに反発してサッカーやフェンシングなどでマチョーになろうとした。エール大学では電子工学と経済学をダブル専攻、卒業後はAT&Tの子会社ベル研究所に勤務、同社からジョンズ・ホプキンズの大学院に派遣され、六四年オペレーションズ・リサーチ部門の博士号を、同年ニューヨーク大学から電子工学の修士号を、それぞれ取得した。その後会社を二つ変わるが、二つ目のジェネラル・インストルメント社で副社長になり、ケーブルテレビのシステムを作る子会社ジェロルド・エレクトロニクスを任され、七〇年代にケーブルテレビの指導的な地位を確保した。ウォーナー・コミュニケーションズ(今日のタイム・ウォーナーの前身)のスティーヴ・ロス会長や早くも五〇年代テレコミュニケーションズ社(以後TCI。本社デンヴァ)を作ったボブ・ジョン・マグネスらの目に止まる。当時のTCIは、大手テレビの番組をはっきりと受信できない辺鄙な西部の町や農場・牧場への中継機能を果たすものだった。七二年、ロスとマグネスから同時に誘いがあり、前者はニューヨークにあるウォーナーのケーブルテレビ部門だったが、付き合いのある重役たちの首を切らねばならないのが苦痛で、ずっと小さい、しかも歳入千九百万ドル、債務一億三千万ドルという破産寸前のTIを選び、執行権のある社長になった。その結果、収入は半減、年収六万ドルになった。金策に東奔西走するとき、マローンはマグネスとモーテルを相部屋にしたほどだ。このとき苦労を分かち合った結果、マグネスはマローンには「父親代わりの師匠」となる。七七年、やっと七つの保険会社から合計七千万ドルの融資を得て債務を軽くし、八〇年代には大手テレビからTCIへのアクセス料を前払いしてもらうようにしたので、八七年には三十億ドルを投入して百五十余の小さなケーブルテレビを買収、さらに何百ものケーブルテレビ会社と提携できた。マローンによれば、他社は都心部進出で膨大な運動費、特にマイノリティ指導者らへのつけ届けでロスが大きかったのが裏目に出た。八七年、テッド・ターナーのTBSを破産から救出すべく、マローンがタイム社も含めたチームを編成、五億ドル強の金が動いた有名な取引に関与、以後TCIはTBSに二二%の権利を掌握、暴れ馬のターナーをみごとに御し続けている。八七年半ばまでには、七百七十万世帯、つまり全米のケーブルテレビ視聴者の五軒に一軒が、TCI保有もしくは提携先を通して見るようになっていた。同年、マローンはユナイティッド・アーティスツ(UA)を支配できるだけの株を購入、UAが持つ約二万五千軒という全米最大の映画館チェーンを掌握した(ただしこれは後に売却)。TCI入社後十六年、八九年までに千社のケーブルテレビを所有、二位の三倍に達し、キャッシュフローは年間三十億ドル、これは三大テレビを合わせたより大きかった。この年半ばまでにマローンは弱小ケーブル会社群四百八十二社と契約を纏めあげた。二週間に一件のペースである。利益は計上しなかったのに、株価は五万五千倍になった。おかげでTCIの秘書ですら百万ドルの金持ちになった。TCIは八〇年代には「黒人芸能テレビBET」その他四社を買収、テレビ製作にも進出した。これだけの手腕を発揮するには、マローンが実に傲慢かく強引な戦術を駆使してきたのは間違いない。例えば七八年、コロラドのある町がTCIが出した増額案を拒否すると、週末中放映拒否で対抗しただけでなく、町長や助役に責任があると告発し、彼らへの抗議を使嗾すべく氏名と電話番号を流し続けたので、彼らの自宅には抗議電話が殺到した。八一年、ミズーリ州ジャクスン・シティで、フランチャイズを再契約させる圧力として放映拒否を断行、競争会社の独占禁止法による訴えで三千五百八十万ドルを競争会社に支払うはめになった。NBCがニュース専用ケーブル・ネットワークを創設しようとしたときも、葬り去った。同社重役は、「TCIがなければ、われわれは生き残れない。やつらはいじめっ子だ」とぼやいた。九二〜九三年のパラマウント買収戦争でバリー・ディラーが率いたQVCがヴァイアコムに敗れたのも、マローン が背後で動いたためだった。特にハワード・メッツェンボーム上院議員がTCIの寡占ぶりに怒り、九〇年独占禁止法発動を示唆したのに対して、マローンはテレビ製作の利益の大半を扱うリバティ・メディアという新会社を興し、大半の自己資産をそちらに移して対抗した。しかも九三年、複雑な操作でTCIがリバティを買い戻し、マローンは六億ドルの利鞘を稼いだ。それからわずか五日後、ベル・アトランティック社と提携し、有線・無線放送、ビデオ・オン・ディマンド、双方向メディアなどの機能を一つに纏めた「電子スーパーハイウエイ」を発足させるとぶちあげたが、九四年に連邦コミュニケーション委員会がケーブルテレビ使用料を七%値下げさせたので、計画倒れに終わった。「ハリウッドの王たち」の独占禁止法無視の気風が伝わってくるエピソードである。九三年TCIは、チャンネル数の激増に耐えられるように、二十億ドルかけて、従来の銅線を高性能のファイバー・オプティック線に総入替えし始めた。さらにTCIの一千百万人の顧客がインターネットに高速アクセスできるように、一億二千五百万ドルを投資してマイクロソフトの二〇%を保有した。九五年、タイム・ウォーナーとTBSの合併では、両者に対してフリーハンドを行使した。

17.フランク・G・マンクーゾ(パラマウント)

  〔不要〕

18.マイク・メダヴォイ(トライスター社長?)

  〔不要〕

20.ジェラルド・レヴィーン

  一九三九年生まれ。タイム・ウォーナー会長。

  スティーヴ・ロスから受け継いだタイム・ウォーナーを、TBSとの合併によって世界最大の映画コングロマリトに仕上げた男。テッド・ターナーとジョン・マローンという難物を相手に健闘したが、現在二十億ドルを越える負債に喘いでいる。

 フィラデルフィアのユダヤ教徒の家庭に生まれるが、後にペンシルヴェニアのクェーカー系のカレッジに入り、ユダヤ教から新約聖書の学習へと移行。ペンシルヴェニア大学で法律を専攻、卒業後は大きな法律事務所に勤めた。一九七二年タイム入社、七六年時点の会長アンドルー・ハイスケルを説得して、人工衛星の時間リースをやり、ケーブルシステムに参入、ハイスケルから「わが社の天才」と呼ばれた。その名を辱めないようトライスター社の創設などでがんばったが、会社に莫大な損失をかけ続け、やっと八九年にウォーナーとの合併を成功させ、副会長職に着いた。九二年、八六年にタイム・ウォーナーの副会長になったニコラス・ニコラスの反対を押し切って、レヴィーンの肝入りで、ロスが作ったタイム・ウォーナー芸能(映画部門とケーブルシステムを包括)を東芝と伊藤忠に売却(後に雑誌社USウェストへ転売)。しかしロスはレヴィーンをとってニコラスを首にした。だが合併でできた膨大な債務で株価が低迷、株主らの不満が高まっていた。しかしレヴィーンは大株主らを分断、例えば最大の株主(一四・九%所有)シーグラムのエドガー・ブロンフマンJrを重役に迎えずに切り抜けた。九三年ロスの死によって会長職を継いだが、ロスほどのカリスマがないレヴィーンは一日も早く先任者の影を払拭するだけの実績を上げる必要に迫られていた。九五年、マイケル・アイズナーによるCBS買収が突発、タイム・ウォーナーは最大規模の座をディズニーに奪われた。レヴィーンはその座を奪還すべく、二〇%を所有するターナーのTBSに狙いをつける。しかしほぼ同じだけの株を所有するジョン・マローンはターナーとよかったのに、レヴィーンは事々にターナーのイニシアティヴを潰してきたので、はなはだ不仲だった。ターナーはウェスティングハウスの向こうを張ってCBSにTOBをかける余力がなかった。レヴィーンはまずターナーに近づき、二十億ドルの利益を匂わせた。債務に苦しむタイム・ウォーナーは株で支払うので、ターナーは一〇%を保有し、自身は副会長職、さらに重役の席を二つ提供される。しかもCNNその他の資産は、タイム・ウォーナー社内で無傷でターナーが確保できる。レヴィーンによれば、ジェーン・フォンダは夫にこういったという。「これであなたはボスが二人(レヴィーンとマローン)できたから、二進を三進もいかなくなったわけね」。三人の会談の纏め役は、インサイダー取引で莫大な罰金をとられ、二年間懲役まで務めたあのマイケル・ミルケンだった。彼はマローンとターナーの上昇期にいろいろと相談に乗った経緯があったのだ。マローンが一番厄介で、レヴィーンはさまざまな特典をつけて、やっと了解にこぎつけた。この合併ではマローンが最大の受益者だった(ただし規模から見て百億ドル相当のこの合併のミルケンへの仲介料は、タイム・ウォーナーが四千万ドル、ターナーが一千万ドルになった)。面白いのは、「第二次スタジオ・システム」時代を決定的にしたこの合併を、ロバート・レッドフォードが批判したのにターナーが賛成し、「どこも同じような映画ばっかり作ることになる恐れがある」と懸念を表明したことだ。しかしターナー自身結構右派なのだが、ルパート・マードックを極右と見なし、彼にCNNが乗っ取られるの防ぐためにこの合併に乗った。マローンもまたケーブルテレビの世界展開を巡ってマードックを最大の敵と見なしているので、この合併を受け入れたのである。ただし二人とも、なんとかロスを越えようと躍起になったレヴィーンの情熱を利用したわけで、気楽な取引ではあった。債務に苦しむのはレヴィーンなのだ。

21.サムナー・レッドストン(ヴァイアコム会長)

  〔データなく困惑。本文にある程度〕

22.ルー・ヴァッサーマン(前MCA会長)

   一九一三年生まれ。前MCA会長。

  「第一次スタジオ・システム」時代と「第二次スタジオ・システム」時代を繋ぐ立場のハリウッド帝王。マツシタの説得に失敗、ついに「メディア・ウォーズ」に乗り遅れ、引退に追いやられた。

  クリーヴランドの貧しい家庭に生まれ、高校時代は放課後から真夜中まで映画館の案内役で働き、夜中の二時に帰宅、翌早朝起きて五マイルの道を歩いて通学した。このため生涯ワーカホリックになり、週七日働き、睡眠時間は極端に短い。高卒後クリーヴランドのナイトクラブで働いたのを、シカゴの目医者からミュージシャン専門のタレント斡旋会社MCAを興したジュールス・スタインに見出され、一九三六年二十三歳でハリウッドに移った。MCAではベスィ・デーヴィス、エロール・フリン、トミー・ドーシーらの担当となる。入社二年で副社長に登用された。ワッサーマンは社員の服装を黒服に白シャツに統一させ、やくざ稼業のイメージを払拭した。スタインは早期の引退を決意し、入社十年目のワッサーマンを社長にした。一方、テレビが試作品で私蔵品としてはカリフォルニアに二台しかなかった一九四〇年、ワッサーマンは早くも一台を所有しており、この器械の可能性に着目していた。だから一九五〇年代にテレビ時代に突入し、映画界が大スランプに陥ったとき、他の映画王たちのようにうろたえず、テレビ用の映画やショーの製作、それらの再放映などの利権獲得をめざして、一九五二年に「映画俳優組合SAG」に働きかけ、組合員に仕事を提供する約束を楯にエージェンシーが製作を兼ねてはならないという禁令を解除させた。このときのSAG委員長がロナルド・レーガンである。ワッサーマンはテレビ製作部レヴュー・プロダクションズを作り、三大テレビに食い込んだ。当時のヒット作が、『ヒッチコック劇場』やレーガンがホスト役を演じた『ジェネラル・エレクトリック劇場』である。テレビ会社に提供する映画が足りなくなり、ワッサーマンは五八年パラマウントの一九四八年以前に製作したフィルム・ライブラリー(約七百五十本)を五千万ドルで買収、テレビ各社にレンタルした。この方式は今日常識だが、ワッサーマンが草分けだったわけだ。同年、ユニヴァーサルの放置されていたロケ地三百六十七エーカーを一千百二十五万ドルで買収した。さらにテレビ会社から矢の催促で俳優が足りなくなり、合計百余名の俳優を傘下に抱えた。斡旋業では五四年の収益六百万ドルが六一年には八百五十万ドルに伸びたきりだったが、テレビ映画製作では五四年の九百万ドルが六一年には七千二百万ドルに伸びた。司法省が独占禁止法違反の咎で介入、二万四千人を要するハリウッドろうそ強力にMCAを支援したにもかかわらず、六二年MCAはエージェンシー部門切り捨てを余儀なくされた。それでもMCAの業績は伸び続け、六四年は一億九千二百七十万ドルの歳入(純益千四百八十万ドル)をあげた。「ワッサーマンの握手は契約書と同じ」という格言が生まれ、六六年彼は「映画テレビ製作者協会」の初代会長に選ばれ、以後七期を務めた。当時、親友のジョンスン大統領がワッサーマンに商務長官の椅子を用意したのを、彼が断ったという噂が流れた(十年後カーター大統領は実際に打診して断られている)。しかし六七年、MCAの収益ががた落ちになり、ウェスティングハウスが三億六千五百万ドルで買収を持ちかけてきた(この電気器具メーカーは九五年CBSを買収して「メディア・ウォーズ」に踊り出るが、こんな時期から映画界に食指を動かしていたのだ)。この時期、引退したスタインが側近にそそのかされてワッサーマン馘首に動こうとしたが、事前にマスコミにリークされて思い止まった。以後ファイアストーンなどからの買収打診が、司法省の横槍で流れた。テキサスの弁護士シドニー・シャインバーグにテレビ製作部門を任せ、ワッサーマンは全社に目を光らせ、業績を盛り返し、七三年は『スティング』、『アメリカン・グラフィティ』、『ジャッカルの日』、『ジーザス・クライスト・スーパースター』などで当て、レコード部門はエルトン・ジョンで儲けた。ワッサーマンは利益で一億ドルの負債を五千二百万ドルまで減らし、他社からトップ・タレントを引き抜いた。しかし巨大化したMCA全体では業績は落ちてきており、飽き易いテレビ視聴者の好み、ケーブルテレビなどの挑戦に、ワッサーマンは自衛策としてユニヴァーサル・ツアーの成功からフロリダのオーランドーにテーマ・パークの開設その他多角経営を図るが企画倒れや不首尾が重なり成功しなかった。八〇年代は『マイアミ・ヴァイス』などのテレビ・シリーズ、『ET』や『バック・トゥーザ・フューチャ』などの映画で盛り返すが、このころから乗っ取り屋がハリウッドを狙い始めた。ワッサーマンは二五%の株を保有し、レーガン大統領との太いコネに守られ、いかなるTOBをも跳ね返せる力があったが、彼は条件がよければ買収に応じる姿勢を見せ始めた。RCA、ペプシ、CBSなどが候補に上がっては消えた(CBSは八〇年代には乗っ取りの標 的になり、ついに九五年にウェスティングハウスに買収されたのは、栄枯盛衰の感がある)。八八年には映画収入が八%に落ち込み、七社中六番目の屈辱をなめた。買収希望者としてジェネラル・エレクトリック、ディズニー、ソニー、日鉄、フィリップスなどの名があがった。八九年、タイムがウォーナーを、ソニーがコロンビアをそれぞれ買収、九〇年にはイタリーのパテ・コミュニケーションズがMGM/UAを買収、ワッサーマンは「われわれは千ポンドクラスのゴリラのゲームで玩ばれる二百ポンドクラスのゴリラだ」と、珍しく弱音を吐いた。九〇年十一月、六十九億ドルでMCAはマツシタに身売りした。ワッサーマンは自分の五百万株の代償として新株から年間三千万ドルの配当金を受け取り、しかも五年契約、年俸三百万ドルで会長の地位に止まった。以後は本文にある通りである。

23.スティーヴ・ロス

 〔データなく困惑。伝記の翻訳が出た?〕

その他

後はマンクーゾの後任の女性社長(氏名思い出せず)。フレッド・プライス。その他。
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