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映画2_1.『パッション』

 メル・ギブスン制作・監督のこの映画は、イエスが十字架上で死ぬまでの十二時間を聖書に忠実に復元した作品で、アメリカでは二月封切り以降、二ヵ月で興収三億五千三百万ドル、さらにはテレビ放映権では『スターウォーズ・エピソード1』以来という空前の超ヒットを続けている。

 この映画の題名は、日本人は「情熱」の意味しか知らないが、元来、「受難」を意味する。イエスは人類全体の罪を背負って受難、それこそが彼の神性の証なので、映画ではこれでもかこれでもかと彼の肉体に暴力が振るわれ、その意味を教わっていない日本人は閉口し、顔をそむける。しかし、幼時から教会でイエス神話を刷り込まれてきたアメリカ人には、一々、ピンとくるのである。

 昔のヨーロッパにはイエスの受難を真似て自らの肉体を鞭打つ「鞭打行者」がいたが、今でもフィリピンでは荒野のキリストを記念する受難節には、進んで自分の手足を十字架に釘付けしてもらう苦行者がいるのだ。

 極限の受難に耐え抜く肉体という観点から、映画ではイエスの肉体性が強調され、一九六○年代以降の「聖書のイエス」と「歴史のイエス」の対立、つまり信仰の象徴としてのイエスと実在のイエスの対立が映画の背景をなしている。映画でイエスを糾弾する大祭司カヤパ、ローマ総督ピラト、筆頭使徒ペテロなどは遺跡から実在が証明され、歴史的人物と判明したのに、イエスだけ遺跡が発見されていない。彼は聖書にしか存在しないのだ。

 そこで実証抜きで強引にイエスの実在性を強調するプロテスタントの「キリスト教右翼」がアメリカに台頭(一説には四千万人)、今や共和党の中核としてブッシュ政権を支えている(ブッシュ自身、キリスト教右翼)。メル・ギブスンはカトリックだが、思想的にはキリスト教右翼と同類で、彼はこの映画でイエスの実在を主張、それがキリスト教右翼に感銘を与え、今回の超ヒットに繋がった。

 ギブスンがユダヤ人には史実通りアラム語、ローマ人にはラテン語で会話させているのも、「歴史のイエス」復元努力の一環だ。

 他方、キリスト教右翼とともにブッシュ政権を支えるネオコン(ユダヤ系が多い)の間には、この映画のユダヤ差別をめぐって分裂が起きた。つまり、イエスの処刑をピラト総督に迫る大祭司カヤパやユダヤ教徒らが憎々しげに描かれていることに、ネオコンの多くが反発したのである。ユダヤ教徒への長年の迫害は、「イエス殺し」が原因だった。

 元来、反イスラムという共通の目的から、キリスト教右翼とネオコンは以前からスクラムを組んできたのだが、この映画のせいでスクラムが危うくなってきたのである。

 ギブスンらカトリックの伝統主義者は、一九六○年代のカウンターカルチャー(ヒッピー革命)の影響でリベラル化したローマ教皇庁に不満で、イエス受難の原点回帰を求めてこの映画を作った。ちなみに、キリスト教右翼もネオコンも、カウンターカルチャーへの不満から台頭してきた勢力なのだ。

 こうしてこの映画はアメリカ社会の今日的精神構造を痛打したがゆえに、芸術作品の域を越えて時代の渦中に躍り出たのである。
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