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映画2_4.インディ・ジョーンズ映画を通して見た「聖櫃」と「聖杯」『インディ・ジョーンズ』

〔インディ・ジョーンズ〕

 インディ・ジョーンズ・シリーズ、映画『レイダーズ/失われたアーク<聖櫃>』(81)には聖櫃(タベルナクルム) 、『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』(89)には聖杯(ホーリー・グレイル) が出てくる。

 『失われたアーク』では、聖櫃の神通力を世界制覇の武器にしようとするヒトラーが部下に命じてエジプトの砂漠の遺跡からそれを発掘しつつあるところを、米陸軍情報部の依頼を受けたインディ・ジョーンズがみごとに自ら発掘・奪取する話だ。『最後の聖戦』では、インディ・ジョーンズの父親で中世文学者のヘンリーが不老不死を約束してくれる聖杯の在り処をつきとめた結果、またしても聖杯によって不老不死の身になろうとするヒトラーが派遣した手先とインディ父子の間で争奪戦が展開、インディは中東にある洞窟神殿の奥の院で聖杯を発見、聖杯で不老不死の聖水に変えられた水を父親の傷口に注いで命を救うが、欲望につかれたオーストリアの女性学者が聖杯を結界の外へ持ち出して、洞窟神殿が崩壊、聖杯は永久に地底に消えてしまう。

〔戦場では神通力を見せず、蓋をとった者を殺す聖櫃〕

聖櫃とは、キリストの聖体を納める容器または天蓋つきの壁龕(ニッチ)だが、フィレンツェのオル・サン・ミケーレ聖堂の聖櫃のように白大理石造りのものなどは美術品に数えられる。だが元々はユダヤ人がモーセに率いられてエジプトを出たとき、モーセの十戒を納めた約櫃を安置して旅する移動至聖所だった。だから正式には「聖約の櫃(ジ・アーク・オブ・カブィナント)」と呼ばれている。出エジプト記第二十五章には、アカシア材で作られた長さ四フィート、幅と高さ二・五フィートの櫃となっている。金箔で覆われ、とりつけた輪に竿を通してかついだ。櫃の上には長さ幅ともに同じ大きさの黄金板が置かれ、「カポレット(神の座)」と呼ばれた。その前後の端に天使が座り、翼を広げてカポレットを覆った。ヤハウエはその上に座したのである。『失われたアーク』の聖櫃は燦然たる金箔だが、カポレットには天使ではなく金むくの鳩が二羽、前後を向いてとりつけられている。

 この聖櫃に触れれば、即座に命を失うものとされた。また櫃そのものが、神通力を持った。『失われたアーク』では、櫃の中にはモーセの十戒の約櫃はないのだが、櫃だけでもすさまじい猛威をふるうのはそのためてある。ヨーロッパへ運ぶ貨物船の中で、聖櫃の梱包の板にスタンプしたナチスの鷲マークが聖櫃の怒りゆえにブスブス焦げるし、インディの競争相手のフランス人考古学者ベロシュがナチス、インディらの眼前で盛大な儀式とともに聖櫃の蓋を開いたとき、櫃から湧き出た放射能ガスのような白い霧があたり中暴れ回り、まさに「肉は立っているうちに腐り、目は眼窩の中で腐り、舌も口の中で腐る」(ゼカリヤ書14─12)という核爆発そっくりな凄惨な光景が出現、目を閉じてそれを見なかったインディら以外は全員が壊滅させられる。白い霧は聖櫃そのものを押し上げ、上空でUFOの形を作るのがご愛嬌だが、聖櫃は再び地上に戻り、おとなしくインディらにアメリカへ持ち帰られ、陸軍情報部の倉庫に収納される。ここもヤハウエは民主主義陣営に好意的という相変わらずのご都合主義的結末だ。

 聖櫃は、戦の守護神としてペリシテ人相手のアフェクの戦場にかつぎ出された。ただし戦神としては効果なく、イスラエル側は三万の味方を失い、聖櫃は敵に奪われてしまう。聖櫃が恐るべき神通力を発揮するのは敵の手中にあるときで、敵方の住民の間にはれ物を蔓延させ続ける。ペリシテ人は各都市をたらい回ししていたが、たまりかねて賠償を添えて聖櫃をイスラエルに返却する(サムエル記上4─3〜7─2)。最終的にはダビデがこれをエルサレムに安置し、祖先がしてきたようにテントに納めた。神殿を建てて納めたのは、ソロモンである。紀元五八七年、神殿とともに破壊されたと見られる。ユダヤ人の「大離散(ディアスポラ)」後は、カポレットが聖櫃の代わりを果たした。

〔アーサー王伝説を広めた贋イギリス史『ヒストリア・レグム・ブリタニエ』〕

一方、聖杯(ホーリー・グレイル)は、有名なアーサー王伝説に出てくるもので、イエスが最後の晩餐で使った品ということになっているが、歴史的にはキリスト教とは本来関係がない。いわばキリスト教の周辺に派生した宗教的冒険譚で、中世に吟遊詩人らが演じ続けた伝奇物語(ロマンス)の中心的シンボルの一つだった。だから現代でも、インディ・ジョーンズのような冒険伝奇物語に再活用されたわけである。

 アーサー王伝説は、一一三六年「モンマスのジェフリー」がラテン語で書いた贋のイギリス史『ヒストリア・レグム・ブリタニエ』に端を発する。ケルトの王アーサーは地元のサクスン人を征服しただけでなく、遠くガリアまで版図をのばし、ローマと決戦する寸前までいきながら、留守を任せた甥のモドレッドの造反で征途半ばで帰国、コーンウォルのキャメル川の決戦で相手を倒すが、自分も致命傷を負い、不老不死の島アヴァロンへ運ばれた。彼の宮廷があったキャメロットは、例えば一時期栄華を極めたケネディ大統領一族をキャメロットになぞらえるように、今でも普通名詞化して使われる。キャメロットはウェールズのモンマスシアにあるケーレオン、イングランドのサマセットのクィーン・キャメル、ハンプシアのウィンチェスターなどにあったとされてきたが、一九六七年に始まった考古学発掘調査でサマセットのサウス・キャドベリーにあるキャドベリー城だったという説が有力になってきた。

 アーサー王自身に関わる伝説では、魔法の剣エクスキャリバーが有名だが、これもキリスト教には関係がない。王の少年時代、石に突き刺さった剣が見つかり、だれもひき抜けなかったが、アーサーはこれを易々とひき抜いて自らの佩剣にし、円卓の騎士を率いて征途にのぼったという。アイルランド伝説にはキャラドボルグというふしぎな剣の話があり、『ヒストリア』の作者はこれを利用してエクスキャリバーの話に仕立てた。ただし彼は、この剣をキャリバーンと呼んだ。十五世紀にサー・トマス・マロリーが『アーサー王の死』にこの伝説をとりあげたときは、「鋼鉄をも切る」という意味でエクスキャリバーと名づけた。映画『最後の聖戦』で聖杯を守る八百歳を越える老騎士が、剣をふるってインディに切りかかるが、むろんあれはエクスキャリバーではない。なおエクスキャリバーには、もう一つ伝説があり、アーサーはこれを「湖の精(レディ・オブ・ザ・レイク)」から授かり、後にモドレッドとの戦闘で瀕死の重傷を負ったとき、王は忠実なサー・ベディヴェアに命じて剣を湖に投げ入れさせたところ、水中からのびた手がそれをつかみとり、三回ふりまわしてから水中に消えたという。トマス・マロリー原作を映画化した『エクスカリバー』(81)がビデオ化されている。

〔聖杯伝説の追加とその伝説のヨーロッパ漂流〕

『ヒストリア』は早くもノルマン詩人ワスによって一一五五年フランス語に訳され、その際有名な「円卓の騎士」の挿話が追加された。アーサー王伝説の英雄譚の大半が、『ヒストリア』が受入れられた先々で地元の英雄伝承を追加する形で形成されたのである。

 聖杯伝説はまもなく、フランス詩人クレティアン・ド・トロワの『ペルセヴァル──聖杯伯爵』によって追加され、それがドイツに入り、ヴォルフラム・フォン・エシェンバッハの『パルツィファル』(1200〜1210ころ) を頂点とするドイツ版に集大成された。同時に聖杯伝説は、イギリスではヘンリー二世の朝臣でオックスフォードの大執事だったウォルター・マップの『聖杯探索』によってイギリスへ逆輸入された。ヨーロッパ全体を貫いて起こった、このようなめまぐるしい伝説の漂流は、例えば『トリスタンとイゾルデ』など他の伝説体系についても見られる。

 『聖杯探索』では、有名な円卓の騎士ランスロットの子ギャラハドが、やはり円卓の騎士の中では最も高潔な人物として聖杯にあいまみえる資格を得る今日おなじみのパターンが完成する。そしてこれを基にサー・トマス・マロリーの『アーサー王の死』(1469〜70)、テニスンの『王の牧歌』(1859〜72)などが書き次がれていく。ギャラハドの父ランスロットは、アーサー王妃グィネヴィアとの不倫によって、聖杯にあいまみえる資格を認められなかったのだ。映画『最後の聖戦』でも、ヒトラーを出し抜いて不老不死の水を飲もうとする邪なドノヴァンはエレナ・シュナイダー博士が選んだ燦然たる黄金杯で水を飲んでミイラに変わるが、インディ・ジョーンズが選んだ一番みすぼらしい杯が聖杯だったことは、彼が高潔な人物だったためである。

 クレティアンの作品では、ペルセヴァルが「聖杯の城」を訪ねると、血まみれの槍、銀の皿、聖杯がある。銀の皿は、城の召使が持参する。聖杯には宝石が象嵌され、広間を照らす照明よりも明るく燦然と輝いている(『最後の聖戦』の地味な聖杯とは対照的だ)。主人公は、「よけいな口は慎め」という騎士道精神の教えに従ってそれらの品々の値打ちを城主に質問しなかったため、後で非難される。この点も、『最後の聖戦』でインディが父親の三つの忠告、「神の吐息」、「神の言葉」、「神の道」に忠実に従って聖杯がある奥の院まで辿り着くのとは趣が違っている。ペルセヴァルは「聖杯の城」を再訪、三つの品々の値打ちを尋ねる。ところが作者クレティアンは、ここまで書いて死んだ。

〔聖杯はイエスが最後の晩餐で過ぎ越しの祭りの羊肉を食べた皿〕

クレティアンまでは、ケルトのアーサー王伝説をフランスの宮廷文化に移植、中世騎士道精神の精髄を鼓吹する傾向があった。従って聖杯探索も、騎士道精神を身につけていく武者修行的色彩を帯びていたのだ。

 またアーサー王、王妃グィネヴィア、円卓の騎士ランスロットの三角関係は、当時のもう一つの有名な伝説『トリスタンとイゾルデ』に見られるマルク王、王妃イゾルデ、騎士トリスタンの三角関係とともに、中世ヨーロッパ宮廷社会の恋愛の基本型を形作った。詳しくはドニ・ド・ルージュモンの『西欧と恋愛』(邦訳『愛について』岩波書店)を参照されたい。要するに西欧の恋愛の基本型は、男性が上級者の妻と通じる不倫行為にあり、男女が添い遂げる結婚は、恋愛とは認められなかった。従って恋愛は極めて反社会的な人間活動であり、王を頂点とする社会側の激しい糾弾を浴びて一層情念が高められ、利害打算を越えた完全燃焼に到達すると考えられた(この点、江戸時代の心中道行ものと軌を一にしている)。フランスを中心とする上流社会はこれを「宮廷恋愛」と呼び、不倫が現実の社会や法廷で糾弾されると、上流貴夫人が主宰する「愛の法廷」が不倫をかばう判決を下して対抗したのである。

 おそらくこれに対する反動もあって、クレティアン以後の聖杯伝説は、急速にキリスト教的色彩が濃厚になっていく。クレティアン以後に存在する聖杯伝説では、イエスの遺体を自家の墓に葬ったユダヤの豪商、ユダヤ議会サンヘドリン議員の「アリマテアのヨセフ」が、聖杯をイギリスにもたらしたことになっている。これはイギリスのキリスト教化と関連している。聖杯はイエスが使徒たちと過ぎ越しの祭りの羊の肉をたべた皿で、それが「アリマテアのヨセフ」の手に入り、ヨセフは十字架から滴るイエスの血をその皿に受ける。その関連から、聖杯は聖餐式で使う聖餐杯と同一視された。パルセヴァルが「聖杯の城」で見た血まみれの槍は、処刑人ロンギヌスがイエスの脇腹を刺し貫いた槍、召使が持っていた銀の皿は聖杯の蓋に使われる。聖杯伝説は一層キリスト教的色彩が濃厚になり、聖杯探索に乗り出す騎士は人格高潔だけではすまず、童貞であることすら要求されるようになっていく。つまりペルセヴァルから童貞の騎士ギャラハドに比重が移るのだ。

 「アリマテアのヨセフ」もしくはその縁者の死後、聖杯は失われる。クレティアン版では、ペルセヴァルは白地に赤い十字架を染め抜いた帆を掲げた船でどこへともなく連れていかれる設定だったが、ドイツ版では、聖杯は「貴石(ラピス・エクシリス)」に変わり、「救いの山(ムンサルフェッシェ)」というすばらしい城でテンプライゼン騎士団によって守られている。聖杯は、この騎士団に食料を与え養う威力を持っているのだ。

〔物質的打ち手の小槌から精神的豊穰の角へ〕

『最後の聖戦』では、ヒトラーの命を受けたナチス部隊がインディ父子を捕らえ、ハタイという架空の共和国にある遺跡、アレクザンドレッタの神殿に押しかけていく。どう見ても中東としか思えない風俗だから、聖杯はヨーロッパから元の中東に戻っている設定である。第一次十字軍(1095〜99) に遠征した騎士三人兄弟が聖地で聖杯を発見、それを「三日月の谷」にある古都アレグザンドレッタの遺跡の神殿に隠して守り続けたが、百五十年後の一二四五年かそこいらに上の二人がそこを出てヴェニスに帰り、末の弟一人が聖杯守護者として残ったことになっている。前記のインディに切りかかった老騎士がそれで、彼は八百数十歳という途方もない年齢だ。むろん聖杯で飲む聖水によって驚異的な長寿を保ってきたわけである。

 インディが、演説を終えて群衆にサインをしながら歩いてくるヒトラーと正面衝突的に出くわし、ヒトラーがインディの所持していた父親の「聖杯メモ」のまさに聖杯の在り処を記したページに、それと知らずにサインして去っていくのは傑作だ。かりにヒトラーの部下が聖杯を入手しても、邪なヒトラーはドノヴァンのようにミイラになるしかない運命だった。

 また騎士の守る聖杯が幾つもあり、本物の聖杯を選ばねばならない設定は、『ヴェニスの商人』の三つの小箱選びを連想させる。一番地味な杯が本物であるわけで、邪なシュナイダー博士もその点は早くも見破り、わざと一番はでな杯をドノヴァンに渡す。一番地味なものが一番いいものだという設定は、三つの小箱選びだけでなく、羊飼いパリスの三人の女神選びにおけるアフロディテ、『プシケ』と『シンデレラ』のヒロイン、『リア王』の娘コーデリア、ジェーン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』のファニーなど、三人姉妹(または従姉妹)の一番地味な三番目が一番いい娘という主題でも、くり返しお目にかかる。フロイトは『芸術論』の中の「小筺選びのモティーフ」で、古代ギリシャには春、夏、冬の三つの季節しかなく、一番地味な三番目は死の季節、冬を代表するとし、運命の三女神の一番恐ろしいものは三番目のノルネンであることに触れ、最も恐ろしい死を象徴するゆえに一番地味な三番目こそ、逆に最も望ましい、生命活動の終始過程全体を見通した英知のゆえに幸福をもたらす存在となるという「願望逆転」だと解釈している。ただしクレティアンの聖杯、ドイツ版の「貴石」、いずれも光輝燦然たるもので、『最後の聖戦』の地味な聖杯とは異なる。聖櫃も聖杯も黄金燦然たる品物とされてきたことは、偶像崇拝を自ら否定したユダヤ=キリスト教の信徒側の代償行為のような気もしてくる。黄金の牛の偶像を破壊したモーセ、最も貧しい姿で地上に姿を現したイエスを思えば、素朴なアシカア材だけの聖櫃、『最後の聖戦』のように最も地味な聖杯のほうが、それぞれの教義にはふさわしいのだが。

 結局、聖杯伝説は、ケルト伝説に見られる食料を生み出すふしぎな器の話、そして同じケルト伝説ウェールズの『マビノギオン』に出てくる「プレデュール」の魔法の槍による復讐譚、そして「アリマテアのヨセフ」の伝説とが複合されてできあがったと見られる。そして食料を生み出す聖杯は、聖餐杯と同一視されることによって精神の糧を生み出す機能を与えられたわけである。
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