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映画3_11.『アイ・アム・サム』

私たちの間での「聖なる愚者」の復活(『アイ・アム・サム』)

 私たちが織りなす社会の中で、私たちはめしいている。自分らの作り上げてきた社会を初めて外から見直させてくれる契機はいろいろあるが、その社会に異質な者がまぎれこんだときも重要な契機になる。
 この映画の主人公サムは「知的障害者」だが、この言葉自体が私たちの社会の側からの造語である。昔は彼らを「聖なる愚者」と呼んだ。この言葉には、サムのような存在に対する畏敬の念が漲っている。
 映画のタイトル部分で、まず「アイ・アム・アム」と出て、後から2つ目の「アム」が「サム」に変わる。「ぼくはアム(存在)である」から「ぼくはサムである」に変わるこの過程は、制作側に主人公を「聖なる愚者」と位置づける視点があることを示している。「存在」とはこの社会を越えた何かであることを示しているのだ。

 また「サム」は綴りを変えれば「誰か」を指し、主人公が異次元からの訪問者であることを示している。さらに言えば、「アンクル・サム(合衆国)」とも呼応し合う。

 「聖なる愚者」という言葉を棄てさせた原動力は、全ての人間をこの社会の基準でしか見ないことが民主主義だとする勘違いだった。「『知的障害者』は気の毒な人だから、みんなでかばって仲間に入れてあげましょう」ということになったのである。サムを雇用しているスターバックの店主などは、そういう勘違いの善意の持ち主だ。この勘違いが恐ろしい暴力性を発揮するのは、娘ルーシーをサムから引き離そうとする検事ターナーやソーシャルワーカーのマーガレットの場合だろう。検事の追及にサムの顔が歪み、ついに卓を叩いて「ノーモア・クェスチョンズ!」と彼が繰り返す場面は哀切極まりなかった(またショーン・ペンの熱演は一世一代のものだった)。しかし検事らの場合も、これまた勘違いの善意が動機になっているのである。

 しかし「聖なる愚者」の機能はもっと深遠なものだ。彼らは全く異質な世界からの訪問者として私たちの社会から馴染み深い表面をはぎとるので、馴染んできた社会やそこに暮らす私たち自身まで初めて見るような奇妙な存在に変質する。

 この映画で最大の変質を遂げるのは、無料で娘ルーシーに対するサムの養育権奪還裁判の弁護を引き受けたリタ・ハリスンだろう(彼女は裁判で辛酸をなめながらも、「救われているのは私のほうよ」と口走るまでになる)。ルーシーを里子にした主婦ランディも変質を遂げ、ルーシーをサムに返す。

 「聖なる愚者」が持つこの変質作用は、今日風に言えば「異化作用(デファミリアライゼーション)(ルビ)」である。つまり「お馴染みな(ファミリアー)(ルビ)もの」を「お馴染みでない何か」に変質させる機能なのだ。「お馴染みでない何か」とは、私たちが顔をそむけてきた異質な世界(昔なら神の世界)の基準である。

 近年、「聖なる愚者」が大ヒットしたのは『フォレスト・ガンプ/一期一会』だった。この主人公は、1960年代の世界的激変を引き起こした公民権運動、カウンターカルチャー、ヴェトナム反戦運動、ウーマンリブ、ゲイ解放運動、障害者解放運動などの一連の動きを裏返し、異化してみせた。これらの動きは大いに世の中を明るくしたのだが、その反面、例の「勘違いの善意」を大いにはびこらせもしたのである。だからこの映画は、反カウンターカルチャーの保守勢力からバイブルのように扱われたものだ。ガンプは1980年代以降とめどがなくなった保守化の契機を作った「聖なる愚者」だった。

 『アイ・アム・サム』には、さらに4人も「聖なる愚者」が登場する。サムのビデオ鑑賞会仲間たちだ。彼らはプラカードを掲げて養育権裁判の法廷に乗り込み、トンチンカンな「弁護活動」をやる。これ自体が、裁判という約束ごと、つまりこの世の「虚構」を裏返し異化する行為である。ターナー検事の執拗な追及も、自分の任務の「虚構性」を見透かされている焦りにも起因しているのだ。

 「聖なる愚者」には、愚者を演じる者もいる。それが感動を呼んだのが、『ライフ・イズ・ビューティフル』でユダヤ人強制収容所に舞い降りた「道化役者」だった。

 このように、「聖なる愚者」は生まれつきの愚者と演技的な愚者に分かれる。しかしどちらも異常な状況で活躍する傾向が強く、ものみな平等にという民主主義と人道主義の世界では彼らの機能自体が否定されてしまうケースが多い。だから彼らが本当に活躍したのは、民主主義とは程遠い、君主が国民の生殺与奪の権を握っていた時代だった。彼らは生まれつきの愚者も演技型の愚者も、ともに「宮廷道化(コート・ジェスター)(ルビ)」と呼ばれた。

 『風の谷のナウシカ』第6巻には、トルメキア王の宮廷に演技型の道化が登場する。例えば彼は、王が上奏文に対して「何とも陳腐なフレーズだ。耳が腐る」と言うと、すかさず「ヒヒヒ、もともと腐ってる」と王にも家臣にも聞こえよがしにくさす。道化だから許されるのだが、度がすぎると死を賜ったから、命懸けのお務めだった。

 エジプト第五王朝時代は主に「小人」、古代ローマ時代は生まれつきの愚者と奇形者が多かった。彼らの家族が君主に嘆願して道化にしてもらうのが普通だったから、宮廷道化は彼らとその家族にとって重要な就職先だったことが分かる。逆に君主や貴族にとっては、宮廷道化を召し抱えることはステータス・シンボルになった。

 彼らはヨーロッパ中世の全盛期12世紀から13世紀に華々しく活躍した。エリザベス一世も数名の小人を侍らせていたが、お気に入りのトマソニアには自分と劣らぬ豪奢な衣装をつけさせた。演技型の道化は堂々と家臣団の面前で国家や君主を毒づいた。そして中には自分の家来を持ち、君主と食卓や馬車を共にする者までいた。彼らは17世紀ころに姿を消す。その1世紀後、イギリス始発の産業革命が始まり、「聖なる愚者」の「障害者」への転落が始まるのである。

 ちなみに彼らは今日のピエロのように顔に異様な化粧を施すことはなかった。また服装も君主や貴族の服装を揶揄すべく、その特徴を誇張したものを身につけた。

 以上から、「聖なる愚者」の機能が異化作用であることが容易に分かる。

 王たちは民衆の嫉妬が自分に集中することを恐れ、家臣団の面前で自分をくささせた。さらに「贋王」と呼ばれる愚者を用意し、民衆の嫉妬をこの者へと逸らし、最後には彼を残酷な形で民衆に殺させた。

 むろん、道化に自分をくささせることは、君主にとって自分の度量の大きさを誇示すると同時に、宮廷に遊びの要素を付加し、サロン性を高める効用もあった。

 私たちが住む高度情報化社会にあっても、「聖なる愚者」の効用は一層高まる。それはこの社会における私たちの効用を一瞬無化してみせることで社会に風穴を穿ち、私たちが顧みなくなっていた原点を指し示す──法曹界での成功にとり憑かれ、夫を失い、一人息子に愛想をつかされかけていたリタが、サムとルーシーの姿にはっと我に返るように。

 それにしても、スターバックで砂糖その他の袋を丹念に揃え、マグカップも商標名が見えるよう一定角度に並べ続けるサムの指先の動きは、「聖なる愚者」が大量生産中心の高度情報化社会との共存を図る必死の労働動作である。そして最後にサムと4人の仲間たちとともにほぼ全ての登場人物がゲームの場に集う場面は、安易なハッピーエンディングかもしれないが、同時に共存の意思表示、つまり私たちが彼らがもたらす異化作用を一種の福音として受け入れる決意表明ともとれるのである。
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