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映画3_3.シドニー・ポワティエからデンジル・ワシントンの間

〔人種統合の流れに乗ったポワティエ〕

 デンジル・ワシントンは今をときめく黒人俳優だが、かつて彼を凌ぐ人気を博していた黒人俳優がシドニー・ポワティエだった。デンジルが1954年生まれ、『ハロー、ダディ』(81)でデビューしたのに対して、ポワティエは1924年生まれ、『ノー・ウェイ・アウト』(50)でデビューだから、この三十年前後の時間差を越えて二人を比較することは、アメリカ白人の黒人の受け止め方がどう変わってきたかを探る試みにもなる。

 受け止め方の激変ぶりは、デビュー作にも反映している。『ノー・ウェイ・アウト』でポワティエは、負傷した差別主義者の白人囚人にとことん苦しめられる黒人の警察病院医師を演じた。それから三十一年後、『ハロー、ダディ』でデンジルは、「逆玉」で上流ワスプの仲間入りしたユダヤ系男性が公民権運動時代に黒人女子学生に産ませた混血児の役で登場したが、映画自体は彼が成人して、ロス郊外の超高級住宅地サンマリノに住むユダヤ系の父親(ワスプ風に改名)を訪ねてくる喜劇だった。この映画は非常に深刻な主題で、ポワティエの時代には到底、喜劇仕立てにはできないしろものだったのだ。

 しかしポワティエがれっきとした医師、白人がろくでなしという設定は、40年代までは考えられないものだった。黒人は給仕や召使と決まっていたのだ。ポワティエは警察病院の医師の人種的割合を考慮し出した公民権運動の「人種統合」のおかげで医師として採用されたことになっている。だが人種統合が高まるのは60年代だから、50年段階で統合を描いたのはハリウッドの先駆性の表れだった。その意味でもこの作品は人種問題では先端的だったが、それでも喜劇仕立てなどは到底できない相談だったのである。

 つまり人種問題を喜劇化できるのは、この問題への対応が成熟段階にさしかかってきたことが前提になる。例えば、在日外国人の問題は悲劇としてしか描けない制約があったために、この問題自体の芸術化の妨げになっていた。それを敢然と破り、喜劇として描いてみせた名作が『月はどっちに出ている』(93?)だったのだ。私はこの映画と在日韓国人・朝鮮人への地方参政権付与の流れとは連動していると思っている。つまり、人種問題に対する日本人の取り組み自体が成熟しつつあることと、在日朝鮮人の監督がこの問題を喜劇として描ける段階に、また在日同胞と日本人が、それぞれ角度は異なるにしても、この映画を享受できる段階にまで、各自が成熟してきたこととが、連動しているのだ。

 さて、ポワティエが当時の黒人俳優のシンボル的存在に昇格した背景は、人種統合の潮流の波頭に位置する映画に集中的に出演した点にある。『手錠のままの脱獄』(58)では手錠で繋がれたワスプと黒人の脱獄囚が「分離」できない両民族集団の宿命を、『野のユリ』(63)では差別的なアメリカ南西部を舞台にドイツ系尼僧の宿願、チャペル建設を助ける黒人の前科者は「統合」を、それぞれ誇示し、『招かれざる客』(67)ではついには黒人と白人の人種横断結婚という「究極の統合」が主題となる。

〔白人が演じてもかまわない役の多いデンジル〕

 しかし『手錠のままの脱獄』ではポワティエはたがいへの憎悪から相互に友情へと突き抜けたワスプ同囚のために自らの自由を犠牲にするし(この場面で黒人観客は一斉にブーイングしたという)、『野のユリ』ではポワティエが白人尼僧を下支えした(この点で『ドライヴィング・ミス・デイジー』<89>に類似。このために黒人側からこの映画への批判が起きた)。ポワティエは白人側の手前勝手な統合ムードをくすぐる役を演じたわけで、だからこそ前者ではアカデミー賞にノミネート、後者ではついに金的を射止めた。黒人のアカデミー主演男優賞受賞は彼の受賞が二十世紀で唯一の出来事だったのだ。

 『招かれざる客』は新聞社主夫妻が万事自主的にと育てた一人娘が黒人医師と婚約した衝撃を描き、10部門のアカデミー賞にノミネートされた。ただしポワティエはその中に入っていず、社主夫人を演じたキャサリン・ヘッバンが主演女優賞をとったことは、黒人の娘婿を引き受ける白人両親へのご苦労さん 意識が選者側にあったことを物語っている。

 人種横断結婚を禁ずる法律を持つ州は16あったが、奇しくもこの映画封切りの年、連邦最高裁がその廃棄を命じる裁定を下した。ポワティエが時代の波に乗っていたもう一つの実例である。新聞社主夫妻は「旧左翼」で、60年代カウンターカルチャーで登場してきた「新左翼」に公民権運動の洗礼を受けていないその旧弊さを否定されたグループに属していた。また重要なのは、ポワティエ扮する医師の両親のほうが新聞社主夫妻より猛烈に息子の結婚に反対したことだ。これは悲しい現実で、被差別層こそ身内の人種横断結婚による被害をより多く受けたからである。

 同じ67年の『夜の大捜査線』でポワティエは最も人種差別の激しいミシシッピで起きた殺人事件を差別的なワスプ・シェリフと協力して解決する北部の刑事を演じ、『手錠のままの脱獄』の主題を警察という逆の立場から演じてみせたのである。

 他方、アメリカ白人の黒人への態度がより成熟した時期にデビューしたデンジルの作品の内容は、非常に多様なものになった。

 特にポワティエとの違いとして目立つのは、『ハロー、ダディ』風の白人との喜劇的状況(『私の愛したゴースト』90)、正統派の黒人受難もの(『グローリー』89、『マルコムX』92、『ヒー・ガット・ゲーム』98、『ザ・ハリケーン』2000)、白人との対決もの(『リコシェ』91、『クリムズン・タイド』95、『バンブーズルド』00、『リメンバー・ザ・タイタンズ』00)の他に、白人でも構わない役が非常に多いことである(『ペリカン文書』<93>の敏腕記者、『フィラデルフィア』の弁護士<93>、『ヴァーチュオシティ』<95>の刑事、『戦火の勇気』<96>の大佐、『悪魔を憐れむ歌』<97>の刑事、『ザ・シージ』<98>のFBI及びニューヨーク市警合同のテロ対処部隊の長、『ボーン・コレクター』<99>の四肢麻痺の弁護士)。

 この事実は、黒人俳優は必ず同胞の問題を演じねばならないという硬直した義務感からデンジル(と彼の同時代)が解放されたことを意味している。これは、前述の同胞の問題を必ず悲劇として描く義務感から解放され、喜劇としても描ける自由さを獲得できたことと相関しているのだ。つまり、黒人俳優が人種を超越した形で普遍的な人間状況を演じてかまわない自由さを、デンジルは獲得しているといえる。この自由さはポワティエとは際立った違いだった。

〔デンジルに残された課題、人種横断結婚〕

 高い地位についた黒人という設定はポワティエも医師役をよく演じたが、デンジルは白人と対決する場合でもより多様な役を演じてきた。地方検事補(『リコシェ』)、原子力潜水艦副艦長(『クリムズン・タイド』。対決する白人艦長は叩き上げだが、デンジルの役はハーヴァード卒のエリート)、アイヴィリーグ出の脚本家(『バンブーズルド』)、白人フットボールコーチの上位のコーチ(『リメンバー・ザ・タイタンズ』)のように、白人より優位に立って対決するのだ。これは現実社会で起きている白人と黒人の地位逆転現象の反映だった。

 デンジルの役の多様性は、時代の違いだけでなく、育ちの違いもある。ポワティエはバハマ諸島のトマト農家の育ち、口減らしにマイアミへ出され、KKKに追い回され、ニューヨークへ逃れてひどいバハマ訛りを克服、劇団入りの後、ついにハリウッドでデビューした苦労人なのだが、デンジルはペンテコステ派牧師の息子で、キング牧師がやはり牧師の子だったように、職業が限定されていた時代の黒人には牧師はエリート稼業だったから、その家庭で育ったデンジルは黒人に限定されない役もより自然に演じられるだけの幅と柔軟性が身についているのである。

 この幅と柔軟性ゆえに、都心スラムを描くにも(『天使の贈り物』96)、そこで悪戦苦闘する黒人牧師を天使になったデンジルが救うという洒落た手法を使う余裕が出てくる。この映画のインタヴューで記者が「絶望的な黒人共同体」という不用意な言葉を使うと、デンジルは直ちにこう切り返す。「黒人みんなが絶望してるわけじゃない。殺人も強盗も白人のほうが数は多いのに、メディアが黒人だけが犯罪をやってるように書くんだ。スラム暮らしにも楽しいことだらけだし、黒人 にとっては一番安全な場所なのに」。

 黒人差別ではアメリカを凌いだ南アフリカに対する使命感はポワティエもデンジルも同じだったが、前者が『叫べ、わが祖国』(51)のように白人作家の原作に基づく点で「統合」路線なのに対して、デンジルの『遠い夜明け』(87)はアパルトヘイト官憲に虐殺された黒人活動家スティーヴ・ビーコーの 側から演じている。

 『から騒ぎ』(93)でデンジルがアラゴン大公役に扮したことの意味は2つある。80年代後半、シェークスピア劇を黒人俳優で演じる流れの一環であること、スペインを支配した黒人ムーア人との混血が今日のスペイン人には多いことだ。いずれもヨーロッパ中心主義の価値体系を突き崩そうとするアフリカ中心主義の流れである。有名なムーア人はシェークスピアが描いたオセロだが、彼らは文明に優れ、フランスやイギリスにも浸透、ムーアやモリスという名は彼らに淵源する。

 それにしても、ポワティエと違って、デンジルが白人女性との人種横断結婚を演じていないのはなぜだろうか? 『ザ・シージ』でアネット・ベニング扮するCIA諜報員と任務上の接触がある程度なのだ。O・J・シンプスンの白人妻殺しが人種横断結婚の文化的成熟のむつかしさを改めて痛感させたことと関係しているのか? 96年時点、黒人と白人の夫婦数は33万7千組(全米夫婦数の0.6%)にすぎないのだ。クリントン前大統領は、「30ないし40年以内に、アメリカでは特定の人種が多数派を占めることはなくなるだろう。私たちはぜひともその事態への覚悟を固めておいたほうがよいと思う」と発言した。アメリカ白人と黒人双方にその「覚悟を固め」させるためにも、デンジルはこの主題を演じる必要に迫られているのだが。
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