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映画4_3.マフィア──イタリア系のアイデンティティ?足かせ?『ゴッドファーザー1』

〔『ゴッドファーザー1』時代のマフィア〕

 この映画の年代は、第2次大戦以降から1950年代だから、ラッキー・ルシアーノやフランク・コステロらの時代が峠を越えかけた時期に照応する。

 ルシアーノは連合軍のシチリア上陸に役立つ情報を提供、アメリカ政府から国外追放だけでおめこぼしに与り、全米マフィアの合同会議体、「シンディケート委員会(コミション)(ルビ)」の覇権を失っていた。彼はサルヴァトーレ・マランザーノ暗殺(1931)によって、1920年代以来続いていた「カステルマーレ戦争」に終止符を打ち、ついに1935年、覇権奪取に成功、自分らを追及するニューヨーク州検察局長トマス・デューイの暗殺を企んでいた。皮肉にも、そのデューイが1945年、州知事として、ルシア ーノの赦免・追放を発表したのである。

 ちなみに、カステルマーレ・デル・ゴルフォはシチリアの都市で、ここ出身のマフィアらはマランザーノに率いられていた。時あたかも禁酒法時代、密造酒の莫大な利権をめぐって、1927年、イタリア系とユダヤ系のギャングらがマフィアとは独立して「七つのグループ」を形成、せめぎあっていたが、ラッキー・ルシアーノはせめてニューヨークではマフィアによる独占を至上命題とされていた。その結果起きた、パレルモ出身の主流派同士の抗争に付け込んでマランザーノのカステルマーレ組が台頭、彼らの助けでルシアーノは「ボスたちのボス」、自身の親分だったジョー・マセリアを倒せた。1931年、頭に乗ったマランザーノは「ボスたちのボス」を自称した。ラッキー・ルシアーノは、同年9月、ついにマランザーノ暗殺を断行した。
この経緯を「カステルマーレ戦争」と呼ぶ。

 ルシアーノの連合軍協力とは逆に、断固、マフィア殲滅を断行したイタリア・ファシスト党首ベニートー・ムソリーニに協力して生き延びたくせに、連合軍が勝つと、一転、そちらにゴマをすってシチリア・マフィアのトップになったカロゲロ・ヴィッツィーニのような人物もいた。国外追放後、シチリアに落ちついたルシアーノは、ヴィッツィーニとシチリア=アメリカにまたがるマフィア提携を推進する。その結果、1946年、帰国できないルシアーノのために、ユダヤ系ギャングの総帥で、ルシアーノとは幼なじみのメイヤー・ランスキーの肝入りによって、後者の地盤ハヴァナでシンディケート委員会を開催、ラスベガスのカジノ・ホテル、フラミンゴ(現存)建設に組の資金を流用した咎で、マセリア殺しの実行犯でランスキーの幹部、バグジー・シーゲルの排除を決議した(翌年、シーゲル抹殺。映画『バグジー』)。

 ちなみに、アル・カポネは梅毒の後遺症に苦しんだあげく、1947年、没した。紆余曲折の後、シカゴ・マフィアは1956年、サム・ジアンカーナが引き継ぐ。

 コステロは若い時期、医師の過失で声帯を傷め、かすれ声になっていたが、マーロン・ブランドーはヴィトー・コルレオーネの声にこれを取り入れた。そのコステロ自身は、1945年当時、ヴィトー・ジェノヴェーゼと、ルシアーノが去った後のシンディケート委員会の覇権を争っていた。

〔「おれたちはUSスティールよりでかい」〕

 マフィアの存在を世界に周知させたのが、米連邦上院の「キーフォーヴァ委員会」だった。エストス・キーフォーヴァ議員らは、1950年だけで600名の証人を喚問、翌年8月まで15カ月にわたって、マフィアがはびこる全米14都市で公聴会を開催して回り、緒についたばかりのテレビ網で全米に報道された。マフィアが全米規模の組織であることを強調するためである。コステロのかすれ声が全米に知れわたったのも、委員会証言が放映されたからである。証人ウィリー・モレティが公聴会で秘密を漏らす恐れが濃厚で、翌年、彼は暗殺された。委員会は、「この国には2つの政府があり、第二の政府は地下政府のマフィアである」と結論づけた。

 キーフォーヴァ委員会に力を得た官憲側は、51年にジョー・アドニス、彼の親友でユダヤ・ギャングの大物ランスキー、52年にコステロらを告発、収監した。

 ルシアーノは1932年、マフィア・メンバーの募集を停止していた。これは、「カステルマーレ戦争」で各組が競って子分を増やした結果、収益の配分率が低下、これ以上の低下を防止するための措置だった。しかし、キーフォーヴァ委員会以後、相次ぐ収監で子分が減った結果、1954年、マフィアは子分募集を再開した。

 コステロは1957年引退、ジェノヴェーゼが引き継いだ(今日、ニューヨーク5大ファミリーの1つ、「ジェノヴェーゼ・ファミリー」。現在のボスは、ヴィンセント・ジャイギャンティ)。それから5カ月後の1957年10月、コステロの味方アルバート・アナステージアが暗殺され、カーロ・ガンビーノが跡を襲った(今日、ニューヨークの5大ファミリーの1つ、「ガンビーノ・ファミリー」。現在のボスはジョン・ゴッティ)。アナステージア暗殺犯人には、ガンビーノ説の他に、コステロと競合してきたジェノヴェーゼがその相棒アナステージアを倒したという説、キューバの利権を争っていたランスキーがやったという説などがある。

 ただし、ガンビーノは外柔内剛タイプで、『ゴッドファーザー』のヴィトー・コルレオーネと性格が似ていた。ちなみに、このファミリーは1995年時点で5つの中で最大、組員400ないし500名、組下3千名、年間収入1億ドルと言われている。

 その翌月の57年11月、ニューヨーク州の田舎町アパラチンで開催された会議には61名のマフィア・リーダーが全米から集まったが、手入れを受けてその多くが森林へ逃れた。主宰者はジェノヴェーゼで、コステロから覇権を奪取した傷口を糊塗する目的だったと言われる。ともかく、この手入れで、マフィアの全米にわたる横の連絡が明るみに出た。それまで「組織犯罪」の存在を疑っていたフーヴァ長官麾下のFBIは、翌58年、この大集団を「ラ・コーザ・ノストラ(LCN)」と名付け、最大の標的と定めた。

 FBIによるマフィア盗聴で有名になったのは、ユダヤ系ギャングの頭領、「イタ公どものヘンリー・キッシンジャー」(コメディアン、ジャッキー・メイスン)と言われたメイヤー・ランスキーの「おれたちはUSスティールよりでかいんだぜ」という台詞だった。これは、1962年5月、あるテレビ番組で「組織犯罪は米政府に次ぐ規模だ」というパネラーの発言を聞いてランスキーが妻に言った言葉として記録されている。

 『ゴッドファーザー2』では、ハイマン・ロスがマイケル・コルレオーネに右の台詞を告げる場面がある。このロスこそランスキーだったのだ。それほどのランスキーも、翌1958年、カストロによるキューバ革命でハヴァナの莫大な資産と活動拠点を失う。1983年の死に際して、あるFBI捜査官はランスキーを、「合法的なビジネス界に入っていれば、GM会長にもなれた男」とまで言った(ランスキーについては拙著『アメリカ異端のヒーローたち』荒地出版参照)。

 59年、ジェノヴェーゼは麻薬取引で収監、61年、獄中死した。同年、コステロは釈放されるが、73年、没した。

〔映画に取り入れられた現実のマフィア事件〕

 この映画シリーズに取り込まれている現実のマフィア事件は幾つかあるが、『ゴッドファーザー1』に限れば、まずヴィトーが露天で果物を買うとき襲われた場面があげられる。これはアナステージアのアンダーボス(若頭)、フランク・スキャリーズが、1957年、ブロンクスの市場で暗殺された場面と酷似している。理由は、彼がボスたちに勧めたヘロイン密輸が挫折したこと、前述のマフィア・メンバー再募集にかこつけて、スキャリーズがオメルタが守れそうもない質の悪い連中に一人数千ドルでメンバーシップを売って いたことがあげられている。

 ヴィトーは麻薬取引に反対した結果襲撃されたから、理由は事実とは逆だ。

 映画でヴィトーの幹部サル・テッシオがバルジーニ側に寝返るのは、ニューヨーク5大ファミリーの1つを率いたジョー・ボナンノ暗殺計画をジョー・コロンボがカーロ・ガンビーノに漏らしたことを思わせる。もっとも、テッシオはマイケル・コルレオーネに殺されるが、コロンボはテッシオより巧みに立ち回り、ジョー・プロファチから覇権を引き継ぐ(5大ファミリーの1つ、「コロンボ・ファミリー」の現在のボスはカーマイン・ペリスコー)。ところが、コロンボは1971年6月、自ら主宰した「イタリア系アメリカ人統一デイ」に、当のガンビーノ一派によって暗殺されるのだ。

 映画のシンディケート委員会でバルジーニがタターリヤ一家を初め他のファミリーを牛耳る光景は、ガンビーノの絶頂期を連想させる。彼は子供同士の通婚によってニューヨーク5大ファミリーの1つ、ラッキーズ・ファミリー(現在のボスはアンソニー・コラーロ)を支配、またコロンボの昇格を助けた貸しからコロンボ・ファミリーをも膝下に引き据えていたのである。

 ヴィトー・コルレオーネの人物像自体、かすれ声は前述のコステロ、彼の政治家とのコネの独占ぶりはガエターノ・ラッキーズ、外柔内剛ぶりは前述のガンビーノ、すべてのファミリーを敵に回して引かない点では、やはりニューヨーク5大ファミリーの1つを築いたジョー・ボナンノ(現在のボスはジョーゼ フ・マッシーノ)らの寄せ集めだと言える。

〔シチリア系、ナポリ系から「イタリア系」へ〕

 前述の「イタリア系アメリカ人統一デイ」にジョー・コロンボがガンビーノに暗殺されたことは、イタリア系という民族集団の特徴との関連で意味深い。

 まず、1970年代のアメリカは、「文化多元主義」の時代だった。つまり、190を越える世界の国々から移住してきた人々が、母国文化を振り返ることに熱中した時期だったのだ。特に、奴隷として連れてこられた自らの母方の先祖の痕跡を西アフリカ、ガンビアに突き止める、アレックス・ヘイリーの『ルーツ──あるアメリカ家族のサーガ』(76)の大ヒットで、各民族集団が先祖の母国へと「ルーツ」探しに「帰国」していった。

 その点、この映画でソレッツォとアイルランド系の悪徳警部マクラスキーを射殺してシチリアの町コルレオーネに潜んだマイケルは、同時に一族のルーツ探しの流行を先取りしていたわけだ。

 ちなみに、大俳優スターリング・ヘイドンがマクラスキーのような端役をやったのは、かつて半年間、共産党員だった前歴を、1951年の赤狩りで咎められ、仲間を売って虎口を脱したことが響き、心理的にハリウッドから孤立した結果だった。また、警察と国民を裏切るというこの端役に、自分の過去を重ね合わせたのかもしれない。

 「非米活動委員会」による赤狩りがキーフォーヴァ委員会によるマフィア狩りと平行して行われ、いずれも緒についたばかりのテレビ網で全米に報道された。これらは、反政府の政治組織と反社会の犯罪組織、この2つのアウトサイダーを国民に印象づけ、テレビによってアメリカ社会が常に排除すべき敵に取り囲まれていることを周知させ、政府による国民統治を容易ならしめる戦略だったろう。

 ともかく、このルーツ探しと機を一にして、イタリア系アメリカ人の間に、自分たちを何かにつけて「マフィア」と同一視するアメリカ社会に抗議する動きが加速された。奇妙なことに、コロンボはこの抗議運動を使嗾、自らの首を締めるような真似をしてガンビーノに殺されたのだ。その動機は分からない。

 これと似たことは、1926年、シカゴでアントニオ・ロンバードーが「シチリア組合」を「イタロ=アメリカン全国同盟」と改称、非シチリア系も受け入れ出したとき起きたシチリア系の強い反発にも表面化していた。

 マフィア排除に腐心してきたイタリア政府側に言わせると、「マフィアとは組織よりも『精神の有り様』だ」という。つまり、国民が「第二の政府は地下政府マフィアだ」と信じ込んでいる心理を指している。「その心理こそがマフィアの根絶を不可能にしている」と言うのである。先に触れたムソリーニも「マフィアとは、犯罪組織であるよりも精神の病だ」(1924)と断定している。シチリア・マフィアの名家の出、ジョー・ボナンノも自伝(1983)で、「外国に支配されてきたシチリア人は、やむをえず『伝統』と呼ばれる生き方を開発した」と、マフィアを犯罪組織より高次の慣習と見なしている。

 古代ローマ帝国の栄華にもかかわらず、イタリアが近代国家としての統一に至るのは19世紀後半だった。従って特に疲弊した南部イタリアからアメリカに移住してきた者たちは、「イタリア系」という国家的自覚はなく、シチリア系、ナポリ系という認識だった。シチリア系ギャングがマフィアなら、ナポリ系ギャングは昔から「カモーラ」と呼ばれ、アメリカ移住後は主にブルックリンを地盤とした(カモーラとは彼らが着ていた特殊なブラウス)。マフィアとカモーラの抗争は20世紀初頭から目立ち、1916年9月に始まるモレロ兄弟率いるマンハッタン・マフィア、ペレグリーノ・モラーノ率いるカモーラ組との抗争が有名である。

しかし、以後、カモーラはマフィアの中へ組み込まれ、マフィアがイタリア系ギャングの総称になっていく。同時に、一般のシチリア系やナポリ系市民の間でも地方別意識が薄れ、「イタリア系」という総称的自覚の中へ組み込まれていったのである。

 これは、アフリカ人という統一的自覚もなく、主に西アフリカからアメリカへ強制的に連れてこられた黒人奴隷の子孫にも共通していた。彼らは、イタリア系同様、アメリカにおいて初めて「アフリカ系」という自覚へと覚醒していったのである。

 これは、母国では民族的自覚が希薄なのに、アメリカという「外国」を新しい母国に選び取ったとき初めてイタリア系やアフリカ系という民族的自覚が強まることを意味している。たぶん、日系アメリカ人も同様だろう。

〔イタリア系大統領実現とマフィア問題〕

 マフィアという呼称は、シチリアの首都パレルモに建てられたばかりの刑務所ウクチアルドネの受刑者を主人公にしたギャスパーレ・モスカの戯曲『パレルモ刑務所のマフィウース』(1862)がシチリアで上演されて以来、人口に膾炙してきた。モスカはシチリアを支配していたフランスのブルボン王家に抵抗、お尋ね者として旅回りの劇団に紛れ込み、逃亡を続けた後、1860年、「赤シャツ隊」率いてシチリアを征服、イタリア独立の立役者となったギゼッペ・ガリバルディに従い、パレルモに凱旋してこの戯曲を書いた。「マフィウース」は、独立戦争の英雄を讃える流行語だった。

 マフィアとはイタリア語で「自慢する」の意味だが、語源は、1282年、パレルモで起きたフランス占領軍への抗議の声、「フランスに死をとイタリアは叫ぶ」という文句の頭文字だと言われる。しかし、前述のように、13世紀にはイタリアという国家は存在せず、各州の寄せ集めだったから、この説は嘘である。また、当時の占領軍はフランスではなく、「第二アンジュー王家」だった。ただ、オメルタと呼ばれる時の権力への絶対的不服従その他の特徴は、13世紀の秘密結社以来、酷似してはいる。

 マフィアの全容がある程度世間に知られたのは、1960年代、ジョー・ヴァラチが当局に入門儀式やオメルタその他を漏らし、それが1918年、ナポリ系のカモーラを裏切ったトニー・ノターロが警察に漏らした内容、及び本土のマフィアやカモーラの儀式内容などと一致していることが判明してからだった。また、前述のジョー・ボナンノの自伝も、シチリアとアメリカのマフィア同士の交流の深さを裏付けたが、米側からパレルモ・マフィアの最高首脳に形ばかりの貢納金が収められたものの、本家と分家の関係というより、対等のパートナーシップだった。ルシアーノは国外退去処分後、シチリアで指導的役割についたらしい。

 組織名称では、コーザ・ノストラ(われらの肝心なもの)、アウトフィット(組)、コンビネーション、シンディケートなどがあるが、最後のものは非イタリア系も含む現況から生まれた呼称で、厳密にはマフィアとの同義性は失われている。従って、「ユダヤ・マフィア」、「メキシカン・マフィア」などの呼称は間違いだと、イタリア系は主張する。

 映画では、「洗礼式の虐殺」で5ファミリーの覇権を握ったマイケル・コルレオーネに、ヴィトー時代の幹部クレメンザが「ドン・コルレオーネ」と呼びかける。しかし、この敬称は俗化したラテン語、ロマンス語だが、タブロイド・ジャーナリズムが勝手にでっちあげたものにすぎない。

 心臓発作で死ぬ前、ヴィトー・コルレオーネは、できのよかった末息子マイケルに、しみじみと「得意の政治家とのコネを使って『コルレオーネ上院議員』、『コルレオーネ州知事』として表舞台に立たせてやりたかったが、今のわしにはその力がない」と嘆く。マイケルは、衰えた父親を慰めるだめだけにせよ、「大丈夫、なってみせる」と答える。

 第二次大戦後から歳月を経て、1982年、マリオ・クオモがニューヨーク州知事に選ばれた。ニューヨーク市長には、すでに1933年のマフィア隆盛期、フィオレロ・ラガーディアが当選、国内線空港に名を残している。「9.11」の対応で名をあげたルドルフ・ジュリアーニ市長もいる。

 ヴィトー・コルレオーネの願望は、「イタリア系アメリカ人統一デイ」に同胞主流化の希望を託してガンビーノに殺されたコロンボの願望と響き合う。

 しかし、大統領は全てWASPか準WASP、だから唯一の例外、アイルランド系カトリックのケネディが当選したとき、マフィアとの因縁深いフランク・シナトラは狂喜し、この同信者に入れ揚げた。しかし、実弟ロバート・ケネディ司法長官からマフィアとの繋がりゆえに忌避され、激怒して共和党に鞍替え、アイルランド系でもプロテスタントという、準WASPのニクスンやレーガン支持に回った。この故事は、二千万人に迫るこの民族集団のアメリカにおける最終的主流化(イタリア系大統領の実現)とマフィアとの腐れ縁、この完全に矛盾する課題が永遠に残されていることを窺わせるのである。
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