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映画4_5.平和な田舎町から炙りだされたアメリカの暴力の歴史『ヒストリー・オヴ・ヴァイアランス』

フィラデルフィアとアイリッシュ・モブスターズ

 この映画の教訓は、以下の通りである。

 主人公トム・ストールが自分の家族、ひいては町の平和を守れたのは、腕っこきのガンマン、ジョーイ・キューサックとしての前歴があったればこそだった。

 しかし、同時にその前歴ゆえに、トム・ストールとしての平和も乱されたのだ。

 トムがギャングの世界から「まっとうなアメリカ人」に変身しようとしたのは、具合が悪くなると大西部へと逃れ続けてきたアメリカ人総体の不断の変身衝動を象徴している。

 ギャングの変身衝動の典型はアル・カポネで、息子をエール大学にやり、南部の上流女性と結婚させ、父子揃ってアンソニー・ブラウンとWASP風に改名した。むろん、教会にも出席した。この映画でも田舎町の住民たちの別れの挨拶は、決まって「じゃあ、また教会で」である。不断の変身の不安を中和すべく、彼らは神信心に打ち込んだ。

 変身と言えば、『ハエ男』(邦題名ご確認下さい)その他、デイヴィッド・クローネンバーグ監督に一貫しているのは変身の主題だ。今回は、この主題がアメリカ史の西進衝動という一大変身運動の帰結(平和な田舎町)と合致して描かれた。

 映画の原作マンガでは、トムがジョーイとして活躍した都市はニューヨークだったが、クローネンバーグ監督はフィラデルフィアに変えた。しかも、イタリア系マフィアをアイリッシュ・モブスターズ(ギャング)に変えたのだ。監督の意図は、以下の通りである。

 マフィアだとマンネリなのと、東部から西部への移住ではイタリア系よりアイリッシュが主役だった。フィラデルフィアは語源的には「愛の神殿」だが、絶対平和主義のクェーカー教徒が建設、アメリカ最初の議会があった都市だった。この「愛の都市」をギャングの巣窟にした意図は、平和は暴力と背中合わせだという冒頭の教訓の強調にあった。

 ただ、ギャングの全米的展開ではアイリッシュ・ギャングはマフィアにかなわない。映画では、フィラデルフィアで台頭してきたジョーイの兄リッチーが生殺与奪の権限をボストンの同胞ギャングに握られていることが語られる。そのためにも、彼は不始末を仕出かした弟を殺してボストンのご機嫌を窺わないといけないのだ。歴史的に見ても、名だたるアイリッシュ・ギャングは、ニューヨークのウェストサイド、シカゴ、ボストンに集中、今日ではシカゴがすたれ、フィラデルフィアがとって代わりつつあるものの、有名なギャングは登場していない。ボストンの場合、史上唯一のアイリッシュ・カトリック大統領ケネディを産んだ地盤がものを言っている。近年出色の大物ギャングはジェームズ・白髪・バルジャーがいるが、今日76歳の彼は賞金100万ドル、「アメリカ十大犯罪者」として国際手配され、もう11年も逃亡暮らし、今年1月にはタイにいる噂が流れた。彼がボストン・マフィアを押さえ込んだ手口は、幼なじみの同胞FBI捜査官と組んで、マフィアのボスたちを陥れ続けたことだった。

●アメリカ人総体の病理の象徴、3人の殺し屋●

 さて、平和な町に迫りくる暴力──この映画の主題から、読者は『真昼の決闘』(52)を思い浮かべるだろう。脚本のカール・フォアマンは、あの3人の殺し屋は当時猛威を振るい、ハリウッドにも犠牲者を頻出させた「赤狩り」の先兵を表すと言明した。では、『ヒストリー』の3人の殺し屋は何を表しているのか?

 クローネンバーグ監督が「愛の都市」(平和の象徴)を悪の巣窟(暴力の象徴)に選んだ意図を、時代背景に照らし合わせれば、以下のようになる。フィラデルフィアの扱いには、民主主義の仮面をつけてイラクに侵攻したブッシュ政権が投影されていることを、監督自身が認めている。この二重性を受け入れたアメリカ人が膨大な数に及んだことは、2004年の大統領選におけるブッシュ支持層を示す「赤地域」の広大さで明らかだった。

 このことを映画に当てはめれば、冒頭の教訓に行き着く。つまり、トムに殺しの技がなければ3人の襲撃を粉砕し、家族の平和を守れなかった。これを時局に当てはめれば、アメリカに世界最強の武力がなければ、国際平和はおろか、自国の平和も守れない。

 トムの妻エディが弁護士なのは象徴的だ。トムの殺しの技(武力)で守られた平和を大規模に維持するのは法律である。道義的には町民の好きな教会も一役買っている。しかし、法律や信仰(民主主義)の仮面で押さえ込んだ暴力を防げるのはトムの自警団能力とシェリフの警察力なのである。

 エディがチアリーダーのユニフォームでトムとセックスするのは、よそ者の彼と共有できなかった高校生活を幻想的に共有するためだった。これこそが平和というものだろう。しかし、一度、3人の殺し屋が登場すると、夫婦の階段でのセックスも凶暴化する(二人の俳優は演技後打ち身だらけになった)。殺し屋への恐怖以上に、トムの変身への相互の激しい疑念が凶暴さの原因なのだ。これこそが、ブッシュ政権や「赤地域」のアメリカ人総体を駆り立てる病的な不安の象徴である。この場合、3人の殺し屋は世界のどこかから突如襲いかかる「テロリスト」なのだ。しかし実は、テロリストはアメリカ内部の暴力の最深部からこそ襲いかかるのである。

 その意味で、キューサック兄弟は別人格だが、深層心理的には、この兄弟殺しは一人の人格の中で起きた。つまり、平和志向心理(トム)が暴力志向心理(リッチー)を「殺害」したことを意味する。

 最後に、映画の町ミルブルックはインディアナ州だが、現実にはクローネンバーグ監督の母国カナダのオンタリオにある。カナダにはあるが、アメリカでは「赤地域」に埋没してしまった架空の町。監督の悲しい意図は明らかである。アメリカ人が映画の町民のようになれば、アメリカは今日以上に世界の復讐にさらされる。これこそが、「暴力の歴史」の生体解剖の核心部分なのである。
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