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映画5_5.<捜索者>と『ミシング』の間のミシング・リンク(失われた手がかり)

〔インディアン文化の恩恵を無視する米主流社会〕

 鷲が十三本の矢をくわえたアメリカ合衆国の国章は何をモデルにしたのか?

 十七世紀から十八世紀前半、今日のニューヨーク州で形成されていた「イロクォイ六部族連合」の表象が、六本の矢をくわえた鷲だった。これがモデルなのだ。「十三」は当時のアメリカ植民地の数である。

 また、アメリカ議会の基本形は、この「六部族連合」の会議場と会議方式、「フーディーノショニー」がモデルだった。

 今日、アメリカ人は感謝祭でカボチャ、七面鳥、トウモロコシ、瓜などを食卓に並べ、先祖の苦労をしのぶ。初期の絵には、インディアンにもそれらの御馳走を慈悲深く振る舞う光景が描かれている。しかし、現実には、白人たちはこれらのアメリカ自生の食料を逆にインディアンから振る舞われたのだ。

 これらの事実は、アメリカの歴史教科書からみごとに排除されている。

 アメリカの主流文化は、WASP(アングロサクスン・プロテスタント)がインフラを構築した。最初は「控えめ」を理想としていたWASP文化が、以後、ヨーロッパ大陸移民の非主流文化の挑戦に刺激され、極めて競争的な今日のアメリカ文化に変質した。

 その競争的アメリカ文化が、インディアン文化を蹂躪していく光景は、映画『遙かなる大地へ』(九二)のクライマックス、「オクラホマ土地争奪競争」(一八九○年代)に強烈に映像化されている。インディアンから奪った土地を白人入植者に解放、彼らは騎兵隊が仕切る競争に参加、大砲の合図で一斉に目当ての土地へ騎馬、馬車、徒歩で走り出す。

 『ミシング』の時代は、それより十年早い一八八五年、場所はニューメキシコである。南北戦争の終結で余った軍事力を、米国政府は西部のインディアンの土地強奪、反乱を起こした彼らの鎮圧に投入したが、苛烈な「インディアン戦争」も、この時期は終盤戦に入りかけていた。映画の騎兵連隊の指揮官はそれにかまけて、ヒロインの祈祷治療師、マギーの誘拐された娘の救出を拒否する。

〔なぜ『捜索者』から『ミシング』に移行?〕

 主流文化は徹底してインディアン文化を排除したが、この映画の主人公ジョーンズのように少数ながら、インディアン社会に入り込む白人もいた(これは「ゴー・ネイティヴ(土着化する」と蔑まれた)。他に、黒人逃亡奴隷も、かなりの数インディアン社会へ逃げ込んでいる。ジョーンズは出で立ちもアパッチと区別がつかず、誤解した騎兵隊に殺されかけるが、彼にインディアン女性の妻がいれば、当時のアメリカ主流社会は、「スクォウマン」と軽蔑したはずだ。「スクォウ」とは、ナラガンセット族の言葉で女性の意味だが、「ブスな淫売」の意味に転化している。

 ナラガンセット湾はロードアイランド州の上流WASPの拠点だが、ケネディ大統領はジャックリーン夫人の母の再婚先、上流WASPの大邸宅(農場)がここにあり、彼はここを「第二ホワイトハウス」に使っていた。 白人はインディアンを迫害しながら、なぜか地名は温存する。これは、北海道のアイヌの地名と同じだ。「征服」という行為と征服された土着文化との関係の微妙さである。

 この映画のもう一つの主題、インディアンによる白人女性や子供の誘拐だが、彼らの多くはインディアン社会でもそれなりの差別を受けながらも、受け入れられた。白人側が救出しても、白人社会でより激しい差別にさらされ、その社会の競争的文化になじめず、大半が共同的なインディアン社会へ戻った。

 この映画とよく引き合いに出されるジョン・フォード監督の『捜索者』(五六)では、ジョン・ウエインはインディアン首長に誘拐された姪の「捜索」にかまけるのだが、姪が首長と関係していれば殺す決意でいる。

 『捜索者』制作の数年後に始まった公民権運動、十年後に起きたカウンターカルチャー(ヒッピー革命)によって、フォードの差別的視点は払拭された。ヒッピーは、大挙、「ゴー・ネイティヴ」し始めた。その結果、インディアン征服が背景になる西部劇は、ハリウッドの視野から消えた。

 従って、誘拐された身内を捜索するという似たような主題は、今日、『捜索者』のように単純勁烈な筋立てでは扱えなくなり、この映画のように複雑な筋立てが必要になったのである。つまり、白人社会を棄てたスクォウマンが、インディアンの無頼漢を追跡する複雑さが必要になったのだ。

〔魔法医者vs土着化した白人&治療師の娘〕

 ただしこの映画では、インディアンらは誘拐した白人娘らと暮らすのではなく、メキシコの売春組織に売却しようとする。また、彼らは騎兵隊の斥候として、同胞を殺す「インディアン戦争」に加担してきた裏切り者だ。この点、彼らは「アパッチ化した白人」、ジョーンズと、対極線に位置する。

 誘拐団のボス、チディンは、イヌイトの血が入った俳優エリック・シュウェイグが演じる。その彼がブリュホ(魔法医者)であることは、何を意味するのか? 彼の顔の疵は、インディアン総体が受けてきた「疵」の象徴だが、被征服ゆえに敵方に寝返る図式は先住民には多い。インドネシアのアチェ族の指導者は、オランダ軍に降伏、相手から戦闘力を吸い取り、近代兵器を十二分に支給されてから再び反乱を起こした。

 ロン・ハワード監督はあれもこれも詰め込みすぎる癖があるのだが、この映画ではチディンにはインディアン文化による白人文化への奥深い復讐を代表させ、マギーのキリスト教信仰と競り合わせようとした。マギーは牧場経営のかたわら祈祷治療師をしているのだ(ただし、彼女が使う薬草もインディアンから仕入れた知識だろう)。ブリュホのチディンは、遠く離れた崖から念力で白人女性を突き落とそうとする。このような、先住民の時空を超越した超能力は、オーストラリア先住民の場合、右膝が誰それ、左肘が誰それと決まっていて、右膝が痛めば遠く離れた身内の誰それが病気だと覚ると言われている。

 この映画の中心主題は、ゴー・ネイティヴして妻子を棄てたジョーンズの贖罪である。彼の罪は深い。娘マギーは彼に棄てられた後、レイプされて長女リリーを生む。その後、彼女がつけざるええなかった強さは、カタログ雑誌の頁を引き裂いて屋外便所へ行くとか、治療でインディアン老女の最後の歯を容赦なく引き抜く姿に示される。そしてジョーンズは、チディンらが誘拐した孫娘リリーを奪還すべく、アパッチの中で鍛えた砂漠の知識を総動員してチディンらを追う。

 彼の贖罪はどうにか果たされるのだが、後には「果たされずに終わったテーマ」が大きく鳴り響く。それは、「結局、『インディアン戦争』の狭間で二つの文化の間を往復、最後に孫娘をアパッチの無頼漢どもから救出、かつて棄てた娘に返してやったジョーンズの一生は何だったのか?」というテーマだ。

 この初期の荒々しい時代、白人たちはバラバラでゴー・ネイティヴしたので、時代の偏見を変えるどころか、逆にあおりたてた。しかしカウンターカルチャーで大量にゴー・ネティヴしたヒッピーたちは、少なくとも、西部征服を美化した西部劇を葬り去る成果をあげた。ジョーンズの一生は、遠い後世の成果を引き出すための捨て石だったのだろうか?
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