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映画6_1.『クラッシュ』が切り開くか、多民族社会の新たな地平

 アメリカは今世紀半ばには有色人種が白人を追い越すと見られている。この映画の舞台、ロサンジェルスは早くも1980年代に有色人種が白人を凌駕、アメリカの未来を先取りしている。また、この映画の題名は、民族集団ごとに居住区が違い、異質な相手との出会いは自動車事故(クラッシュ)くらいしかないという意味と、異なる民族集団同士の出会いは激突(クラッシュ)しかないという意味がダブらされている。

 こういう主題なら、従来は白人監督は差別に繋がることを恐れて腰が引けるのだが、スパイク・リーらの黒人監督が歯に衣着せずに強烈な描写が可能だった。ところが、この映画の監督はスコットランド系である点がユニークである。例えば、白人街に紛れ込んだ黒人青年2名が、「あいつら、おれたちをギャングだと思ってやがる」と言った舌の根をも乾かないうちに、WASPの地方検事夫妻のSUV(スポーツ汎用車)をカージャックする。しかも2名は有名なラッパーが演じているのだ。これは白人監督には勇気の要るプリゼンテーションである。

 むろん、この監督は、差別的な白人警官に黒人のテレビ監督夫妻をいびらせてバランスをとる。しかし、この2例は、単に白人監督として悪役を黒人と白人に平等に配置したというご都合主義ではない。以上の変化の底には、もっと根深い底流の変化が窺えるのだ。

 つまり、有名なラッパーが喜劇的なギャング役を演じることは、順序が逆転しているのである。ラップは、8歳くらいから殺人に手を染める「若者ギャング」の凄絶な暴力性の奥底からほとばしり出てきた破壊的なリズムだった。若者ギャングの誕生は、工場が海外へアウトソースされ、父親たちが失業、崩壊した家庭で息子らが麻薬販売で生計を立てるしかない状況に起因している。ギャングの暴力から生まれたラップの担い手たちが、映画ではギャング役を喜劇的に演じることが逆転だということは、お分かり頂けるだろう。

 そして、この逆転こそ、黒人ポップカルチャーの生成過程の逆転をも意味し、結局は黒人ポップの解体の予兆となる。その証拠は、エミネムという白人ラッパーが登場したことだ。従来、自分ちのポップカルチャーに自信が持てなかった白人たちは、ジャズ、リズム&ブルーズ、ロック、ラップなど、黒人が辛酸の只中から産みだしたポップカルチャーを横取りして自己満足に浸ってきた。エルヴィス・プレスリーは、ロックの白人化の頂点だった。つまり、白人たちは「黒人ワナビーズ(模倣者)」となることで、自らの実存の軽さを補ってきたのである。しかし、その時点で、黒人ポップの解体が加速されるのだ。この映画が白人監督によって作られた背景も、スパイク・リー・ワナビーズ的心情である。

 白人の差別警官の描出では、この監督は立体性を心掛ける。警官は非常に父親孝行で、なんとか入院させようとするが、貧乏人は健康保険制度から排除されているアメリカでは拒否される。拒否した事務長が黒人女性だったことから、警官はテレビ監督夫妻に八つ当たりしたわけだ。しかも、警官は、監督夫人の車が転倒、バースト寸前に命懸けで救出までしてのける。こういう描出は、スパイク・リーには甘ちょろくて鼻持ちなるまい。

 ちなみに、テレビ監督や事務長のように、文化多元主義の成果で、アメリカでは白人を凌駕する黒人が多数登場しているのだ。それが白人警官の鬱憤を高めてもいる。むろん、黒人側には、ギャングや貧困層は比率的に白人の3倍はいるのだが。

 甘さと言えば、この映画では、クリスマスイヴのロスに、珍しくも雪が降る。これは清めと癒しの雪で、やはり雪の白さこそ価値があるとするのは、白人側の発想だろう。彼らは中東人だったキリストまで白人にしないと気がすまなかった。

 「9/11」の余韻も描かれる。英語がたどたどしいイラン系の雑貨店主は、9/11以降、客との応対で不愉快な目に遇い続け、ヒスパニックの錠前屋と口論、その後、押し込み強盗に入られ、錠前屋が犯人と確信、相手を襲撃する。錠前屋はこの映画では珍しい掛け値なしの善人なのだが、雑貨店主にはそんなことは分かりもしない。同様に、彼がアラブでなくペルシャ系のイラン人だということも、アメリカ人には分かりはしない。

 9/11以降、政権を牛耳るネオコンとキリスト教右翼こそ、ポップマインドを冷え込ませた元凶だから、イラン系雑貨店主のエピソードは、12近くものサブプロットが交錯し合うこの映画では、なかなか重要な意味を持っている。ネオコンとキリスト教右翼は、黒人のポップマインドばかりか、白人の「黒人ワナビーズ」まで分断、アメリカ人の文化的底流を底冷えさせてしまった。

 とはいえ、スパイク・リーの領域へ白人監督が果敢に切り込んだことは、前進には違いない。これまで白人監督はこの領域では硬直していた。例えば、マルコムXを描こうとしたユダヤ系のノーマン・ジューイスン監督に対して、スパイク・リーが「白人にあの人物が描けるわけがない」と牽制球を投げると、ジューイスンは引っ込んだ。リーの発言は、一種の「文化的ファシズム」である。この映画は、白人監督がこの硬直から脱皮し始めた証拠の一つと見られる。とすれば、黒人ポップの解体の只中から新たな地平が見えてくる可能性もないではないのである。
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