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映画7_4.教え子がわが子を託したくなる教師の物語『卒業の朝』

〔本物の教師が活躍し易い教育的環境とは?〕

 プレップスクール(アイヴィリーグへの進学校)が舞台の作品である。

 私も長年教師をしてきたが、この映画の主人公ハンダートのような教師にはめったにお目にかかれない。彼の真価が明示されるのは、かつての教え子が今度は自分の息子を彼に託す最後の場面である。この生徒マーティン・ブライズは父親もこの学校の生徒だったから、実に父子孫3代にわたる。しかも、ハンダートは別の生徒を贔屓してブライズを冷遇した前科を相手に告白していたのだ。それでもブライズは、あえてわが息子をハンダートに託したのである。

 私はブッシュ父子大統領が出たプレップスクール、ボストン北のフィリップス・アンドーヴァを取材して、ハンダートの実物を見た。この国語教師トム・リーガンは、40余年ここで教師を務め、ハンダート同様、校長になることなく、数年前引退したが、彼こそはまさに、かつての教え子たちが何としてもリーガン先生に習わせたいとわが子を送り込んでくるような教師だったのである(拙著『ワスプ(WASP)』(中公新書参照)。彼の教育的気迫を受け継ぐ教師には、「トム・リーガン賞」が設定されている。

 授業の仕方も似ていて、リーガンはイギリス作家イヴリン・ウォーの中編を教材に、イギリス貴族の生活や意識について機関銃のように質問を連射、15名の生徒らは一斉に手をあげ、リーガンはなかなか「正解」を出さず、生徒らはベルがなっても質問を止めず、教師が去ると、生徒同士で議論を続けた。

 プレップスクールは小人数教育を徹底していて、ボストン西にある、フランクリン・ローズヴェルト大統領の母校グロトンなどは全校生徒数が300名に満たない。従って授業料と賄い料が年間3万ドルと非常に高額になる。これでは中流子弟は入れないので、出世したOBらの寄付による奨学金で彼らを受け入れる。この映画でも、集金力が校長になる重要条件で、人格感化力は抜群でも集金力が弱いハンダートはその地位につかせてもらえない(リーガンも同様だった)。また彼が何とか正しく育て上げようとしてしくじる生徒セジウィック・ベルは、図書館拡張費用を寄付し、それに上院議員だった父親の名を冠することを要求する。OBにとっては、母校への寄付はまさに「母校に錦を飾る」行為なのだ。

〔なぜ教育は「親に代わって」なされるのか?〕

 これらの私立校は、イギリスのパブリック・スクールをモデルに作られた。どちらも基本的には、「世界帝国」(19世紀の英、20世紀の米)が世界に展開させる人材を養成すべく、幼い段階から子供を親元から切り離し(だから全寮制が原則)、精神形成、すなわち人格鍛練を行って、「帝国」の期待にこたえられる人材に育て上げることが目的である。この仕組みをイン・ロコ・パレンティス(親に代わって)と称した。

 俗に「全ての才能は孤独の中で鍛えられるが、ただ一つ、人格だけは別だ」と言われる。人格形成には「場」が要るのだ。それが学校であり、社会(職場)である。ハンダートは、「人格は宿命だ」と言う。2度のカンニングを恬として恥じないセジウィックには、これが当てはまる。彼はついに生涯にわたって「不肖の弟子」で終わる。しかもその彼が、父親の地盤を継いで上院議員に立候補する。ここにこそ、「帝国」の世界政治の破綻が仄めかされているのだ。なぜそうなったのか? ベル上院議員は、「息子の型作りはわしがやる」とハンダートにクギを刺す。つまり、イン・ロコ・パレンティスを否定したのだ。しかし家族は社会ではない。血縁集団は私利私欲の塊で、公共性が中心となる社会とは異質である。人格形成の「場」はあくまで社会でければならないのだ。

 ベル上院議員の子育て上の錯誤は、彼がウェスト・ヴァージニア州という荒々しい風土を地盤にしていることにも起因している。ここへはイングランドとスコットランドの境界地方の粗暴な人々が移住してきたので、その名残は議員がハンダートに拳銃をプレゼントする場面にも窺える。

 プレップスクールの創設者らはボストンを中心とする東部のアングリカン派の上流WASPで、バプティスト派が多いウェスト・ヴァージニア州人など野蛮な田舎者にすぎなかった。東部の上流WASPは明確な教育システムを考案したが、ベル議員らは同じWASPでも、「息子の型作りはわしがやる」式の原始的教育観から脱皮できなかったのだ。しかし彼が息子に「セジウィック」という上流WASP名家の名をつけたことは、大きな矛盾である。

 しかしハンダートは、「人格を変え、宿命も変える」可能性を教育に見いだす。それを最も理解したのは、わが子をハンダートに託した教え子ブライズだろう。

〔2度の晴れ舞台と子供たちの宿命の分かれ道〕

 時代設定は、ブライズらが在学中の1972年と社会人となった1997年である。時代考証面でのこの映画の問題点は、プレップスクールをも襲ったカウンターカルチャー(ヒッピー革命)やヴェトナム反戦運動の嵐がまるで描かれていないことだ。登場人物らは、まさにベビーブーム世代なのにである。

 カウンターカルチャーこそ、ギリシャ=ローマなどの古典を教育方法に色濃く取り入れたハンダートの一方的なやり方に挑戦、生徒側からのカリキュラム編成参加を要求した。生徒らばかりか、教師の一部も、イン・ロコ・パレンティスそのものに疑問を抱き、生徒らのニーズに応えようとした。

 その意味で、長髪、反抗心で目をぎらつかせたセジウィック・ベルが闖入、事ごとにハンダートに逆らう姿こそ、カウンターカルチャーの息吹の代替物なのかもしれない。

 ただ、プレップスクールでも公民権運動によって有色人種への門戸開放が進んだ状況は、インド系の生徒ディーパック・メータが後述する「ミスター・ジュリアス・シーザー・コンテスト」(1972年度、25年後の異例の臨時開催)で2度とも優勝する点に示されている。また、1972年時点で池の向こう側に隔離されていた女子校が、25年後には共学になっている(共学化の波はすでに70年代に始まっていたのだが)。

 映画のポイントは、成人した生徒らが、それまでの父親との葛藤に代わって、自分たちの息子や娘との葛藤を引き受ける点にある。ブライズの父親は、セント・ベネディクト校で「ミスター・ジュリアス・シーザー」に選ばれたことによって息子の心にプラスの葛藤を引き起こした。ブライズは、反抗的なセジウィック・ベルの人格鍛練を焦ったハンダートによってシーザー・コンテストの代表から不当に落とされ、父親に対する葛藤に応え損ねる。それにもかかわらず、25年後、ハンダートの謝罪を受けて、ブライズはわが息子を母校に送り込み、祖父から孫へと三世代がセント・ベネディクト校を人格鍛練の場とするのだ。

 他方、セジウィック・ベルは、生徒時代、卒業から25年後、自費で強引に再開させた、2度目のシーザー・コンテストで平気でカンニングをしてのける。

 自信満々のセジウィックは、父親譲りのあらゆる「カンニング」で政界への雄飛を果たすと恩師にうそぶく。ここまでは、セジウィックがついにセント・ベネディクト校に対してはあくまで「闖入者」に終始した証拠となる。ところが、彼への懲罰は意外な方角から襲ってくる。恩師にうそぶく場面を、わが息子に立ち聞きされてしまうのだ。この子の父親への幻滅こそ、セジウィックへの最大の教訓になるだろう。ブライズの息子の幸せと異様な対比が見られる場面である。

 不肖の弟子、つまり「人格は宿命だ」という悲観論をセジウィックの中に確認したハンダートは、再び気力を奮い起こして、「人格を変え、宿命を変える」べく初老の教師として、共学化し一層多民族社会化した母校に返り咲くのである。それは、新しいアメリカに対する教育的挑戦のための復帰なのだろう。
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