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映画7_5.オバマ登場の背景をネガとして描いた映画『ブッシュ』

●父子大統領とエディプス・コップレックス●

 普通、大統領のような歴史的な人物を描く場合、彼の心理を通して歴史が見える。あるいは、歴史を通して彼の心理が見える。この心理と歴史の合体的手法をサイコヒストリーと言う。この映画『ブッシュ』は近過去の歴史を扱うサイコヒストリーである。

 しかし、オリヴァ・ストーン監督は、ブッシュの「サイコ」、つまり主人公の父親との葛藤に重心を置いた。監督自身、この作品を「これは政治的映画ではなく、シェークスピア的映画だ」と言っている。つまり、エディプス・コンプレックスの映画なのだ。ただし、おかしな言い方だが、尋常のコンプレックスではない。「父親が大統領になった以上、自分まで大統領にならなければならない」という強迫観念にとり憑かれた男のエディプス・コンプレックなのだ。

 このコンプレックスの根幹は、「象徴的な父親殺し」である。主人公の場合これは、自分も大統領になって、父親が仕留め損ねたサダム・フセインを倒すことだった。この途方もないコンプレックスの超克は「自力」だけではむりだ。映画で怪しげな説教師に、最初は自分の定まらない進路の悩みを打ち明け、数年後には「大統領になれという神の御告げがあった」と打ち明けた。神こそが主人公にとっての「他力」だった。そしてこの説教師こそ、主人公の政権を支えた有名な「キリスト教右翼」数千万人の代表だったのである。

 なぜブッシュ父子が合衆国史上二組しかいない「父子大統領」になれたかは、以下の理由による。「東部エスタブリッシュメント」の御曹司だった父親が、彼の父親(主人公の祖父)の先見の明によって、東部と南西部(テキサス)の地域資本の双方を股にかける戦略を実行に移したためだ(詳細は拙著『ブッシュ家とケネディ家』朝日選書)。地域資本は東部資本に敵対的なので、ブラウン兄弟ハリマン社という財閥の大番頭で連邦上院議員だった主人公の祖父が、息子(主人公の父親)をテキサスへ派遣して地域資本を手なづける戦略を実行に移したのである。しかも主人公の曾祖父は、レミントンという兵器会社その他を率いていた。つまり、少なくともブッシュ家四代の政治経済的資本の「成果」が史上二組目の父子大統領を生んだ(ちなみにこの四代は、映画では別の名称で描かれる、イェール大学の排他的学生クラブ、スカル&ボーンズのメンバー)。

 最初の父子大統領だったアダムズ父子(第二代と第六代大統領)は、双方ともに極めて優秀な頭脳の持ち主だったし、時代も今日よりはるかに単純だった。しかし、グローバリズムによって拡大し複雑化された今日の政治環境では、上記のように四代の富と権力の蓄積が「史上二番目の父子大統領」出現の大前提だった。

 主人公のエディプス・コンプレックス(サイコ)は、上記の歴史(ヒストリー)を背景として、「シェークスピア的」な規模に拡大されざるをえない構造を持っている。

●ドジの人間味、抜け目なさの暴走●

 ところが主人公は、優秀さでは第六代大統領ジョン・クィンシー・アダムズとは比較にならなかった点が、映画『ニクソン』と違ってこの映画を「悲喜劇」にした。ニクソンもまた、パラノイアを別にすれば主人公よりはるかに優秀だった。なぜイェールに入れたかは、先祖三名が同窓だったからだ(「レガシー・ティップ」の慣習)。父親との葛藤があわや父子の殴り合いになりかけた映画のシーンは、事実である。この場面で特徴的なのは、主人公はできのいい弟(後にフロリダ州知事)にはハーヴァードのビジネススクール入学を告げていたくせに、自分を疑問視する両親には告げていなかった点だ。

 だが、主人公にはふしぎな魅力があった。例えば、妹が白血病で死亡、母親が一夜にして総白髪になると、以後、子供心にも主人公は何とか母親を慰めようとした。例えばこんな具合に。「ロビンの埋め方は、縦? 横? 立ったまま?」。一座がシーンとなった後、父親が「なぜそんなことを?」と聞くと、主人公はこう答えた。「地球の自転って学校で習ったんだ。ある時間はロビンが逆立ちしてるわけだろ。カッコいいじゃん」。母親は「これが本当に救いになった」と自伝に書いている。映画にはこの話はない。

 主人公のこの側面は、原題『W』にも出ている。Wを「ダブヤ」と発音したのだ。映画でもグナンタナモをグアンタナメーラ(「グアンタナモ市民」。有名な歌)といい間違える。主人公のおかしな発音はさんざ笑い物にされたが、Wはウォーカー財閥を指し、これが祖母の実家だった(ゴルフに詳しい方々はウォーカー杯をご存じだろう)。ブッシュ家を超一流に押し上げたのはこの財閥で、初孫にまでこの家名が受け継がれたのである。次男だった父親は、ミドルネームにもろに財閥当主の氏名を受け継いだ。

 また、野球好きも主人公の明るい側面だ。父親もイェール大学では野球部にいたようにブッシュ家は野球好きだった。上流WASP(英系)は、野球を庶民のスポーツとして蔑み、ポロを自分たちのゲームとしてきた。しかし、主人公には彼の「フィールド・オブ・ドリームズ」があった。プロ野球の「部分的オーナー」にまでなった。彼がこの段階で止まっていれば、イラク戦争、いやアフガニスタン戦争すら起こらず、彼自身も平穏な人生を送れたかもしれない。従ってこの映画の最後のシーン、大歓声ながら無人のスタンドを背景にスーツ姿の主人公が大飛球をキャッチしようとバックを続けたのに、構えたグラブにボールが落ちてこない場面はジーンと効いてくるのだ。

 物理的にいって大統領職のすごみは、オバマの側頭部に早くも白髪が目立ち始めたことからも窺える。八年任期を務めた大統領で生き残っているのはクリントンだけ、後は主人公の父親も含めて四年任期の者たちばかりだ。そのクリントンの頭は真っ白になった。主人公の頭髪も、あっという間にゴマ塩から白髪優勢になった。

 それでも、主人公は父親の大統領選選対を指揮して父親を一度は大統領に当選させる辣腕ぶりを発揮した。また、知恵袋の軍師チェーニー副大統領とのランチで、「閣議では出しゃばるな。決定者は私だ」とクギを刺すだけの、人心収攬の術があった。「知恵だけ貸せ。それを使うのはおれだ」と言っていたのだ。クッキーを喉に詰める間抜けさとこの抜け目なさ──ストーン監督はこの両面を描き込んだが、一般の人々、そして観客には捉え難い大統領だったのかもしれない。「9/11」によって、その抜け目なさがイラク戦争への暴走のきっかけとなった。

 さて、ストーンの『JFK』はブッシュ父に不利、クリントンに有利に働いた。この映画は、明確にオバマに有利に働くだろう。いや、なぜオバマが出現したか、その背景をネガとして描いたのがこの映画だとさえ言える。
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